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カテゴリ:西暦535年の大噴火
・・・タイミング的に触れにくい話なんですが・・・。 ともかくここでお話しすることは、歴史の話であって、現代の話ではないと言うことで、ご容赦いただければと思います。 世界三大宗教(誕生した順に仏教、キリスト教、イスラム教です)について、簡単に触れてみたいと思います。 宗教というのは、どの宗教であっても大雑把に言って、平和と博愛、日々を清く正しく生きることを説いています。 これは私の独断と偏見ですが、「信じないと地獄に堕ちます!」とか、「この壺を買わないと幸せになりませんよ!」と言っているものは、宗教の名に値しません。そう言うのは逆に神様の罰に当たるものだと思っています。 と、そちらにはあまり踏み込まないようにして、話を元に戻したいと思います。 宗教は、大きなメッセージは同じでも、宗教思想の成り立ち、性格はそれぞれ異なります。立ち位置で見ると、仏教は「魂の不滅」であり、キリスト教は「愛」、イスラム教は「戒律」というカラーの違いを見ることが出来ます。 これらは教祖の考え方の違いもあるでしょうが、宗教が誕生した時代の社会的背景も、大きな要素だと思います。 イスラム教が何故「戒律」を重視した宗教なのか、順を追って見てみたいと思います。 ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフは、西暦570年頃誕生しました。生まれた時、父は亡くなっており、母も彼が幼い頃に没したため、祖父や叔父に育てられました。 成人後は一族の他の者と同様商人となり、シリアへのキャラバン貿易に参加しています。恐らくその過程で、中東全域で吹き荒れていた戦乱と貧困の現実を、つぶさに見ることになったのでしょう。 彼を悩ませたのは、本来人々を救うはずの神が争いの火種となり、世界に戦乱と無秩序をもたらせている矛盾した現実でした。 神とは何なのか、何故戦乱と貧困に人々は苦しんでいるのかという問いは、ここから始まったのだと思います。 610年頃、ムハンマドはマッカ郊外のヒラー山の洞窟で瞑想していたところ、大天使ジブリール(キリスト教世界ではガブリエルと言います。ちなみにユダヤ教でも天使とされています)に出会い、唯一の神(アラー。アラビア語で「神」と言う意味です)の啓示を受けたとされています。 自身を預言者と考えるようになったムハンマドは(彼の立ち位置は最後にして最大の預言者です。つまり彼は神ではなく、神から啓示や預言を与えられる人間という立場なのです)、イスラムの教え(イスラムの意味は、「神への帰依」です)を説き始めました(最初に入信したのは、15歳年上の妻ハディージャでした)。 こうしてイスラムの布教が始まりましたが、その教えは多神教社会のアラブ社会では過激すぎるものと受け止められました。 なぜなら彼の説くアラーの神は、唯一絶対の神であり、その戒律に従うことを求め、他の宗教、特に偶像崇拝する宗教や多神教を、全て否定するものだったからです。 ちなみに、偶像崇拝は、キリスト教にユダヤ教、仏教も実は禁止しています(正確に言えば「禁止していた」という過去形です)。 ですが信者を増やすには、人形(ひとがた)の神像や仏像があった方が説得力があり、布教の手助けになるので、なし崩し的に作られるようになりました。教会に行けばキリスト像やマリア像が、寺院に行けば仏像があるのはそのためです。しかしイスラム教はこの戒律を今も守って、神の像も、教祖ムハンマドの像も肖像画もありません。 世紀末的風潮に悲観していた人々にとって、イスラムの教えは魅力的でした。 イスラムの教えは簡単に言えば、戒律(六信五行といいます。六信とは、神、天使、啓典、預言者、来世、天命を信じること、五行とは、信仰告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼をおこなうことです)を守ることで救われると説いたからです。 キリスト教の愛の概念や、仏教の魂の普遍と言った曖昧な考え方とは異なり、あたかも法律を守るかのように、アラーの戒律を守れば救われるという考え方は、非常に分かりやすく実践しやすいものでした。 また元々商人だったムハンマドは、他の宗教のように商業活動で財産を持つことを批判したりしませんでした。 他の宗教、例えばこの時代のキリスト教のように、「金儲けは悪いこと、不浄なお金は神に全て寄進しなさい」なとど、言わなかったのです。 キリスト教世界で、財をなすことが神の御心に反しないという思想が登場するのは、この900年後の事ですから、イスラム教は思想的にかなり先進性があったと言えます。この柔軟な考え方は、マッカやヤスリブの商人たちに広く受け入れられたました。 財産を持つことを容認したムハンマドですが、それだけに落ち着いていたわけではありません。富める者の責任について言及しています。財産を持つ者は、持たない者を助ける責任があるとして、貧しい人々への奉仕、社会福祉を求めたのです。もちろん自分の財産を、ムハンマドは自らの教義どおりになげうっています。そう言った行動は、貧しい人々からも絶大な支持を受ける一因になりました。 一方、急速に信者を増やしていくイスラム教に、マッカの多神教関係者たちは警戒感を持つようになりました。 キリスト教やユダヤ教には理解を示したムハンマドですが、彼は多神教に関しては、神はアラーただ1人であるという考えから、その考えを否定し、神が複数いるという考えが、世に戦乱や貧困を蔓延られている原因だと、激しく攻撃したからです。 そのためムハンマドは、彼らから刺客を何度も送られることになります。かろうじて暗殺の手を逃れたムハンマドですが、これ以上マッカに留まる事は危険でした。 かくして622年、ムハンマドはマッカを脱出して、ヤスリブに移住しました。これを聖遷(ヒジュラ)といいます。そして預言者の苦難のはじまりであり、飛躍のきっかけとなるこの年を、イスラム暦(ヒジュラ暦ともいいます)元年とし、彼が逃れたヤスリブの町をメディナ(「預言者の町」と言う意味です)と改名して記録にとどめることになります。 ムハンマドに続いて、メディナにはムスリム(イスラム教徒)たちが迫害の続くマッカから次々に逃れてきたため、ムスリムのコミュニティが築かれました(便宜的にこの時期のことを、イスラム共同体と呼ばれています)。結果、マッカの多神教関係者とイスラムの対立は、マッカとメディナの2都市間抗争へと変化していきました。 メディナに移ったイスラム共同体は、ベドウィン(アラブの遊牧民)に信者を増やしながら、勢力を拡大させていきました。 これに対してマッカは何度かイスラム討伐軍を送りますが、イスラム側に敗れ、両者の力関係は逆転していきました。 そしてヒジュラから8年後の630年、ムハンマドは1万の軍を率いてマッカに侵攻し、無血占領しました。 ムハンマドは敵対した者に対して、当時としては極めて寛大な姿勢で臨み、ほぼ全員を許しています。しかしカアバ神殿に祭られていた数百体の神像・聖像はムハンマド自らの手で破壊されました。彼からみれば、多神教の神々こそ、アラーの戒律を乱し人々を苦しめる元凶であり、祭ることなど許せない話だったのです。 イスラム共同体のマッカ占領は、政治的な空白が続いていたアラビア半島の勢力地図を一気に塗り替えました。マッカとメディナの二大都市を支配したイスラムに、大小部族のほとんどが傘下に入り、アラビア半島はイスラム共同体のもと統一されたのです。 こうして統一されたアラビア半島ですが、632年にムハンマドが亡くなると、イスラム共同体は存続の危機に陥る事になります。 次回はイスラム共同体が、イスラム帝国へと変貌していく過程に触れてみたいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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