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カテゴリ:西暦535年の大噴火
632年にムハンマドが世を去ったとき、後継者となるべき男子がいなかったことは、イスラム共同体の運命を大きく変えました。 後継者は、ムハンマドの友人でもあったアブー・バクルがなりましたが(彼は自らの地位をカリフ(「アラーの使徒ムハンマドの代理人」と言う意味です)と称しました。ムハンマドが死んだ632年からウマイヤ朝が出来る661年までを、正統カリフ時代と言います)、ハーシム家出身ではない彼に反感を持つ者は多く、内部紛争に発展しました。 ただ反対派は一枚岩というわけでもなく、他に担ぎ出すべき人物もいなかったため、アブー・バクルは敵対勢力を各個撃破して反対派を一掃しましたが、同時に厄介な問題を抱え込みました。敗れた反対派は、東ローマ帝国やサーサーン朝ペルシアに逃亡したからです。もし彼らが、これらの国の力を借りて攻撃してきたら大変なことになります。 実を言うと、イスラム共同体はアラビア半島を統一したものの、それでアラビアの人々の状況が好転したわけではありません。 食糧難は相変わらずで、住民の多くは飢えに苦しんでいました。東ローマやペルシアの攻撃に備えて、軍を維持する必要もありましたが、その財源もありません。反対派粛清の混乱もくすぶっており、このまま手をこまねいていれば、ムハンマドというカリスマ性に富んだ指導者のいないイスラム共同体は、瓦解してしまう可能性があったのです。 それを防ぐためアブー・バクルがとった手段は、簡単に言えば、「外に敵を作る」「自分たちに不足するものは外から奪う」という方法でした。 イスラムを脅かす(かもしれない)敵を悉く滅ぼしてしまえばよい。財源や食糧も敵から奪い続ければ、アラブの民が飢えることないし、次の戦争のための資金にもなる。つまり戦争によって戦争を養うという考えでした。 戦争を始めるには大義名分がいりますが、丁度良い口実がありました。 マッカ攻略の2年前の628年、ムハンマドは東ローマ帝国とサーサーン朝ペルシアに、イスラムへの改宗を求める親書を送っていました。 「私はただ一介の警告者、そして信心深い人々には、嬉しい便りを伝えるだけのこと(コーラン第7章188節)」 ムハンマドはイスラムの教えこそが、混沌とした世界を救うものと考えていました。したがって両国とも、ムハンマドに教えを請いに来ると思っていたようです。 しかしこの時点のイスラム教は、メディナ1都市を中心とした1新興宗教に過ぎません。そんなこともあって、両国ともイスラムの教えに関心を持たず、相手にしませんでした(無視されたことがムハンマドは悔しかったようで、「ギリシア人(東ローマ帝国人のこと)の知っているのは現世の上面だけ。来世のことなどまるで頓着無し(第30章2節)」と批判しています)。 この時イスラムは、マッカとの抗争に忙しく、そのままになりましたが、アブー・バクルと幹部たちは、これを戦争の口実に利用することにしたのです。 唯一の神アラーとその預言者の言葉を無視したのは、東ローマ帝国とペルシアが無神論者の国だからである(実際には、東ローマ帝国はキリスト教、ペルシアはゾロアスター教を国教として無神論者の国ではありませんでしたが)。無神論者は討伐しなければならない。これはアラーの威光を世界に広げるジハード(聖戦)である。と主張したのです。 「無神論者」というと、今の日本でも多く当てはまりそうですが、イスラム教の考えの中では、この言葉は特別な意味を持ちます。 生前、ムハンマドが痛烈に批判したのが無神論者でした。 彼の考えによれば、誤った神を信じる者は、それが誤りであり唯一の正しい神のことを教え諭せば、正しい神を信仰するようになるだろう。 「これ、預言者よ。信者たちを駆り立てて戦いに向かわせよ。汝ら、忍耐強い者が20人もおれば、200人は十分打ち負かせる。もし汝らに100人もおれば、無神論者の1千人ぐらい十分に打ち負かせる。何しろ全く頭の鈍い者どもなのだから(第8章65節)」 「それで、悪いことをした彼らの最後も酷いものになっただけのこと。アラーのお徴を嘘呼ばわりして、馬鹿にしてかかったために。いよいよその時が到来する日、不義の輩は声も出せずに立ちすくんでしまうであろう(第30章10節、12節)」 「道楽するばかりで、一向にアラーのお徴を信じようとせぬ者は、我々がこのように報いてやる。だが来世の責め苦はそれよりさらにつらく、さらに長い(第20章127節)」 と、コーランには、無神論者に対する過激な言葉が並びます。 633年、イスラム軍は東ローマ帝国とペルシアへ、同時に侵攻を開始しました。 20年に及ぶ戦乱で疲弊しきっていた両国は、この新しい敵の攻撃を支えきれず敗退しました。 東ローマ領では、ユダヤ教徒はムスリム(イスラム教徒)を歓迎して迎え入れました。彼らユダヤ教徒の多くは、東ローマとペルシアの戦争時にペルシアに味方したため、戦後迫害されていました。そのため東ローマ軍を破ったムスリムを、メシア(救世主)の使わした使徒と考えたのです。 636年、東ローマ帝国皇帝ヘラクレイオス1世はシリアに親征しますが、ヤルムーク河畔の戦いで敗れ(この時、ヘラクレイオス率いる本隊はまだ到着しておらず、戦いは前哨戦にすぎませんでしたが、イスラム軍が降伏した東ローマ兵約1万3千名を全て処刑したため、動揺した後方の本隊のアラブ兵たちが逃亡し(遠征軍の9割近くがアラブ人の傭兵だったといわれています)、軍は瓦解しました)、シリアとパレスチナの大半を失いました。 敗戦の衝撃でヘラクレイオス帝は倒れ、「シリアよさらば。なんとすばらしい国を敵に渡すことか」と嘆いたと言われています。 彼は、シリアの失陥で、東ローマ帝国がエジプトを永遠に失い、地中海世界の覇権を失うことを悟ったのです。 事実東ローマ帝国はこの後もイスラムと戦い続けますが、領土奪還はおろか、形勢を立て直すことが出来ずじりじりと敗退し、641年、失意の内にヘラクレイオスは世を去ることになります。 東ローマ帝国中興の祖と言われるヘラクレイオス帝ですが、暴君フォカスの打倒から32年、治世の大半を戦場で過ごさねばならず、コンスタンティノーブルの玉座で安穏と過ごすことは最後まで出来ませんでした。 そして東ローマ帝国は、地中海世界の一地方国家、歴史区分上で言うところのビザンツ帝国(ギリシア人の帝国)へと転落していくことになります。 一方のサーサーン朝ペルシア帝国も、636年のカーディシーヤの戦い、642年のニハーヴァントの戦いでイスラムに敗れ、国土の大半を失いました。 そして651年、ペルシア皇帝ヤズデギルド3世は部下の裏切りで殺害され、サーサーン朝ペルシアは滅びました。 そしてイスラム帝国は、東は今のインド・パキスタン国境から、西は北アフリカ全土とイベリア半島(スペイン)まで征服していくことになります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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