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カテゴリ:西暦535年の大噴火
イスラムが何故こうも強かったのかは、いくつかの原因が挙げられます。 まず、唯一の神(アラー)の戒律に従えというイスラムの教えは、軍事的にみれば、「指揮官の命令はアラーの言葉」と言う形で置き換えることが出来、指揮系統の一本化に利用できました。 「彼らを殺したのは汝ら(ムスリム)ではない。アラーが殺したもうたのだ。射殺したのはお前でも、実はアラーが射殺しもたもうたのだ(第8章第17節)」と言う言葉もコーランに出てきますが、 これらは兵士たちの心理的な負担を軽減する効果もあったことでしょう。 それに戦闘後の戦利品の分配を手厚くしたことは、兵士たちの戦意高め、為政者たちの思惑どおりに、次の戦闘を欲する渇望へと繋がりました。 戦死者の遺族にも戦利品を分配したのも有効でした。兵士たちは自分たちが死んでも、家族が餓え死にすることはないため、後顧の憂い無く戦い、死ねばアラーの御許に行けると勇敢さを維持できたのです。 あと地中海地域に、キリスト教とユダヤ教の終末論が蔓延していたのも大きな助けになりました。 規律正しいイスラム軍の将兵を見て、双方の信者とも、イスラム軍を神が使わした軍勢と見なして交戦意欲を失い、むしろ歓迎する者が多かったのです。 この頃のイスラムは、キリスト教徒やユダヤ教徒を「啓典の民(聖書はイスラム教の聖典のひとつです。したがってイスラム教とユダヤ教、キリスト教は、同じ神という考え方なのです)」として、改宗を要求せず手厚く遇した事も、住民たちの支持を集められました(一方で、仏教や多神教の信者たちは、弾圧され、改宗を強要されました)。 そして最大の理由は、何と言っても東ローマ帝国とペルシアが、共に弱体化していたからです。 もしこれが100年前の東ローマ帝国の力があれば、このような無様な敗戦はあり得なかったでしょう。ペルシアも同様です。 その意味では西暦535年の大災害がイスラム教の登場を促し、100年の及ぶ戦乱と混乱が、イスラム教の世界宗教への道を助けたと言えるかも知れません。 その後イスラム共同体は、661年に第4代カリフ、アリー・イブン・アビー・ターリブ(ムハンマドの父方の従弟で、ムハンマドの娘ファーティマの夫)が暗殺されて正統カリフ時代が終わり(4人のカリフの内、初代のアブー・バクルを除く3人が、アラブ族内の対立から暗殺によって命を落としています。当時がどういう時代であるかを表していると言えそうです)、世襲王朝ウマイヤ朝(661~750年)が成立します。 ウマイヤ朝は、709年頃までに北アフリカ全土を制圧し、711年にはジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島の西ゴート王国を滅ぼしました。 そしてピレネー山脈を越えて、今のフランスへ侵攻しましたが、トゥール・ポワティエ間の戦い(732年)でフランク王国のカール・マルテル(686~741年)に破れ、西ヨーロッパ征服には失敗しました(この後イベリア半島では、約800年に及ぶレコンキスタ(昔は国土回復運動と意訳されていましたが、現在では再征服運動と訳されています)の戦争が、キリスト教徒とイスラム教徒によっておこなわれることになります)。 こうして、正統カリフ時代からの領土拡大路線を受け継いだウマイヤ朝ですが、国内では矛盾が拡大しつつありました。 領土の拡大につれ、イスラム教はアラブ人だけの宗教ではなくなり、ペルシア人やベルベル人(北アフリカに住む白人)、ソグド人(中央アジアに住んでいる人々)にも広まっていましたが、彼ら非アラブ人イスラム教徒は、アラブ人至上主義(非アラブ人には、シズヤと呼ばれる重い人頭税が課せられていました)のウマイヤ朝の中では、被征服者の地位に甘んじなければなりませんでした。この事は国内に広く不満を生みました。 なぜなら、教祖ムハンマドは、無神論者や多神教信者こそ批判しましたが、アラブ人を選民視する考えを持っておらず、信徒の平等を説いていましたから、特権階級化したウマイヤ朝支配者層は、「預言者ムハンマドとコーランの教えに背くもの」と、アラブ人たちの間からも批判されるようになっていったのです。 そこでアッバース家(ムハンマドの叔父アッバースの子孫の家系)を旗頭として革命が起こり、アッバース朝(750~1258年)が興りました(敗れたウマイヤ朝の王族の1人アブド・アッラフマーンは、イベリア半島に逃れ、後ウマイヤ朝(756~1031年)を建国します)。 こうしてアラブ人以外の人種の政治参加も可能になったアッバース朝のもとで、イスラム帝国は最盛期を迎えることになります。 イスラム帝国の領域は、現在のスペインから北アフリカ中東全域、パキスタンから中国西域(新疆ウイグル自治区)に及び、後年のモンゴル帝国に次ぐ大帝国となります。 そして領土の拡大につれ、イスラム教も世界中に広まり、三大宗教のひとつへとなっていきます。 イスラム帝国の成立は、人類の歴史に大きな転換期をもたらしました。 北アフリカから中央アジア地域の多民族、多言語社会に、アラビア語が現在の英語のような国際言語の役割を、イスラム教は統一価値観としての役割を担いました。 これによって、出自がどの民族であっても、アラビア語とイスラム教を理解できれば、身を立てられるようになったのです(イスラムの勢力圏外、例えばイタリアや中国の長安などでも、アラビア語は通用しました)。 交易の効率は飛躍的に向上し、東西交流は盛んになっていきました。 7世紀から数百年にわたって、ユーラシア大陸東西を結びつけたのは、イスラム教とアラビア語だったと言っても過言ではないのです。 私たちが普通に使っている紙も、発明された中国(後漢時代西暦105年頃、宦官の蔡倫によって発明されたとされています)が、中東からヨーロッパまで広がるきっかけとなったはこの時代であり、イスラム帝国が関わっています。 西暦751年、イスラム帝国は中国唐朝の勢力圏だったイリ地方(現在のキルギス共和国)へ侵攻し、タラス河畔で両者は衝突しました(タラス河畔の戦い)。 この戦いで唐朝は大敗し、捕虜となった唐人の中に紙職人がいたことが、中東に紙が生産・使用されるきっかけとなり、さらにヨーロッパへと広まっていくことになったのです(ヨーロッパで伝わって生産されはじめたのは12世紀頃)。 もしイスラム帝国が存在しなければ、紙の欧州への伝播はもっと遅くなり、科学技術の発達にも大きな影響が出ていたかも知れません。 さて、これで長々と書いてきた地中海世界の話は終了です。次からは西ヨーロッパに目を向けてみたいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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