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2016.12.25
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カテゴリ:西暦535年の大噴火

みかん食べる

 

前回書いたのは約一年前か・・・。月一どころか年一になってますねぇ(汗)。

構想は頭に入っているのですが、文章化がすっごくおそいです(多汗)。時間が余りとれないものでして(いい訳)。

と、言い訳はこの辺にいたしまして、久々の西暦535年の災害前のフランスのお話しです。

フランスはイギリスよりローマに近いこともあって、歴史に登場したのは200年以上も早くになります。紀元前2世紀には、ローマの侵攻を受け、ガリア人(当時フランスに住んでいた人たち。ケルト系民族で、ブリトン人たちとほぼ同族です)と戦争が始まっています。
ローマがガリアを欲したのは、紀元前3世紀に、ローマはカルタゴ
(現在のチュニジア共和国首都チュニス近くにあったフェニキア人の都市。共和国時代のローマ最大の敵でした)からヒスパニア(現在のスペイン)を奪ったこともあり、ローマとヒスパニアを結ぶ交通の要衝として、ガリア(今のフランス)を確保したかったのです。

しかしガリア人たちは勇猛果敢で、ローマは長い間手を焼きましたが、戦争開始から約100年後、ガイウス・ユリウス・カエサルによって、紀元前1世紀に征服され(この時カエサルが、ローマ元老院に詳細を書き送ったのが、有名な『ガリア戦記』です)、ローマ領ガリアになりました。

ローマ領になってからのガリアは、ローマ軍の貴重な人的資源の供給地となりました。それを有効に活用したのがカエサルであり、その後継者オクタヴィアヌスでした。

ローマがエジプトを征服し、確固たる地中海帝国を築けたのも、ガリア兵の貢献が大きいものでした。
そしてブリンタリア
(ブリタニア。今のイギリス)同様、ガリアも時代を経ることに、ローマの支配になじみ、ローマの慣習や法律を受け入れ、ガリア人はローマ人化していきました。
この事は、円滑な支配が出来るという意味では、ローマの為政者にとっては歓迎できる話でしたが、一方でガリア人らしさを無くしたガリア人は、ローマの番犬の役割を果たせなくなっていったことは、軍事的には由々しきことでした。
3世紀になると、ローマ帝国はフン族や、ゲルマン民族
(ゴート族やフランク族など)の大移動(一般的に「大移動」という言い方をしますが、もちろんただ移動してきたわけではなく、武力による侵略を伴うものです)によって苦しめられることになりますが、ガリアも同様でした。

一度は撃退してライン川の東に追い払ったものの、その後もゲルマン人の侵攻は続きローマ帝国は抗しきれず、居住を認めるかわりにローマの支配を受け入れさせる事で妥協することにしました。

こうして、かつてガリア人が請け負っていたローマの番犬としての役割を、ゲルマン人たちが受け持つようになりました。

その後、ローマ帝国が東西に分裂し(395年)、西ローマ帝国の混乱と衰退に伴い(その原因の一端は、フン族や遅れてやってきたゲルマン人たちの侵攻が続いたからです)、ガリアに定住していたゲルマン人たちは、ローマ帝国の支配から自立の道を選んでいきます。

西ローマ帝国が、ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた時(476年もしくは480年と、二つ説があります)、西ゴート人たちはフランス中・南部からイベリア半島にかけてを支配し(西ゴート王国)、イタリア半島は、オドアケルを討伐する名目で侵攻してきた東ゴート族のテオドリック大王が東ゴート王国を建国し、北アフリカとシチリア・コルシカ島はヴァンダル族(かつてローマを苦しめたカルタゴの子孫たち)が支配し(ヴァンダル王国)、西ローマ帝国領は、分割と再編の動きを加速させていきます。

そして政治的空白地となったローマ領ガリアの北では、フランク族(この頃の領域は北フランスとベルギーの一部)が、この争奪戦に参加していました。

フランク族長クローヴィス1世(466~511年。フランス語読みでは、「クロヴィス」が近いようです)は、ライン川北側にいたフランク族を統一すると、東ゴートのテオドリック大王と同盟し(妹を彼に嫁がせています)、方フランス一帯を切り取り、507年にはフランス中部へ侵攻して、西ゴート王国をピレネー山脈の南に追い落とし、フランク王国(メロヴィング朝)を建国しました(領域はブルゴーニュ半島と地中海沿いの南フランスを除く、現在のフランス全域と、ベルギーとドイツの一部です)

小勢力にすぎなかったフランク族が大きく躍進できた理由は、クローヴィスが政戦両略に長けた手腕を持っていたことが大きな理由ですが、部族をあげてローマ・カトリックに改宗したことも(それまでフランク族は、キリスト教ニカイア派を信仰していました)、現地に残留していたローマ人やガリア人たちの支持を集めることが出来たのも、大きな理由でした。

このカトリックへの改宗とローマ人やガリア人の積極的に受け入れは、クローヴィスの優れた政治的センスを端的に物語っていると言えるでしょう。

立場的にはフランク人が支配階級であり、ローマ人やガリア人は被征服民でした。彼らを優遇することは、同胞のフランク人たちに不満を生むものです。

しかし国家機構を整備するためには、ローマ人とガリア人の知識は必要と彼は割り切ったのです。

クローヴィスは反対するフランク人族長を説得して納得させ、聞き入れない者は粛清する飴と鞭を使い分けた方法で、フランク人をまとめ上げました。
ローマ人の法と制度を取り入れたフランク王国は、ローマ人やガリア人の支持を受けられなかったゴート人たちと異なり
(ゴート人たちは、キリスト教アリウス派を信仰していたため、ローマ人やガリア人の支持を得られませんでした。同じキリスト教ですが、カトリックは、神とキリストと精霊(天使)の三位一体を教義としたのに対して、アリウス派はキリストの神性を認めず、一人の人間と位置づけたため、カトリックから異端と批判され、後に大弾圧されて滅ぼされます)、現在のフランスに繋がる、西欧の大国への地位と立場を作っていくことになります。

建国の王クローヴィスは511年に死去しました。それが誕生間もないフランク王国に暗雲をもたらすことになります。

フランク族は、財産を兄弟に均等に振り分ける習慣がありました(これはフランク族に限らず、遊牧民族特有の考え方です。農耕民族は一人の後継者(主に長男)に全財産を相続させる慣習があります)

クローヴィスの死後、王国は4人の息子(長男テウデリク1世はランス、次男クロドメールはオルレアン、三男キルデベルト1世はパリ、四男クロタールはソワソン)に分割されました。

そうなるとおきまりのパターンですが、4つの国が互いに争い、活力は外ではなく内側に向けられることになりました。

そして西暦535年の大災害がフランスを襲うことになります。






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Last updated  2016.12.25 23:24:27
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