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カテゴリ:西暦535年の大噴火
西暦535年に発生した大災害は、今のフランスにも大打撃を与えました。 干ばつと豪雨の異常気象が、交互に襲い、農業生産に大打撃を与えたのです。その事は必然的にフランク王国内の対立を激化させました。 クローヴィスの死から24年、まだ彼の息子たちは諍いを続けていました。 4つの内、オルレアン(次男クロドメール)はソワソン王クロタール(クローヴィスの四男)の謀略によって滅ぼされており、ランス(長男テウデリク1世は死去して、嫡男のテウデベルト1世が跡を継いでいました)、パリ(三男キルデベルト1世)とソワソンの3つが争っていました。 536年、パリ王ギルベルトは、甥のランス王テウデベルトを誘い、ソワソンを滅ぼす計画を持ちかけました。 ギルベルトは、兄クロドメールの子どもたちを謀殺して、オルレアンを滅ぼしたクロタールを憎んで強い警戒心を抱いており、ソワソンを滅ぼして領土を奪い、食糧危機を乗り切ろうと考えたのです。 テウデベルトがその誘いに乗り、ランスとパリがソワソンに侵攻すると、不意を突かれたクロタールは破れ、森に逃亡しました。 そしてそこで「奇跡」がおきました。 「クロタールは森に逃げ込み、樹木の間に大きな円形防塞を築き、神の慈悲に身を任せることにした。 クロティルド(クローヴィスの妻で、クロタールとキルデベルトの生母)は事態を知った。彼女は(トゥール市内の)聖マルタン教会の墓地に赴き、跪いて嘆願し、内紛が起こらないよう、一晩中祈り続けた。 キルデベルトとテウデベルトは軍を率いて出立し、クロタール軍を包囲した。そして、クロタールを翌朝に殺害する計画を立てた。だが明け方になると、野営地で大嵐が荒れ狂った。テントは吹き飛び、装備は散り散りになり、何もかもが滅茶苦茶になった。雷鳴と雷光と共に、雹の総攻撃を受けたのである。 全員が地面に顔を付けていたが、その地面に雹がすでに厚く積もっていた。降り続ける雹が全員の体に激突していた。盾以外で防ぐものとてない。雷に打たれてしぬのではないかと思った。馬は四散していた。王二人は、地面に横たわっている間に、体のあちこちに切り傷を負った。 二人は神に懺悔し、縁者を攻撃しようとした罪を許してもらおうとした。すべての人が、雹の奇跡は、聖マルタン教会でクロティルドが祈った結果だと確信した」 と、聖マルタン教会の司祭トゥールのグレゴリウス(6世紀の人で生没年不明。『フランク史』を記した歴史家でもあります)の記録です。 ・・・まぁ、オチとして、「ウチの教会で祈ると御利益がありまっせ♪」になっている感がありありですが(笑)、その点を差し引いても、何が起きたかが分かりやすく記録されています。 両軍は戦闘になるまさにその日の朝に、大嵐と雹の「攻撃」を受けて、戦闘どころではなくなってしまったのです。 「ただの雹でしょ?」と思われるでしょうが、ようは受け手の問題です。彼らが神が戦闘を止めたと考えた事が重要なのです。和解が神の意志と考えて三者は仲直りしたのです。 こうして流血の事態は回避されたわけですが、実は戦争になった大本の問題は全く解決していません。クロタールを滅ぼそうとした理由は、フランク領内での深刻な飢饉であり、それが解決したわけではなかったからです。 彼らは、フランクの外、南フランスとイタリアに目を向けました。 地中海に面した南フランス地域は、当事東ゴート王国の支配地域でした。 古代から、南フランスはローマ帝国の交通の要衝として、都市が栄えていて(一方、中部から北の地域は深い森で覆われ、都市は発達しておらず、経済基盤も脆弱でした)。人口も多く、経済的にも豊かな地域でした。 もしクローヴィスの死後、フランク王国が分裂せずに拡大政策を続けていたら、フランクは間違いなくこの地域に侵攻していたことでしょう。 しかしこの豊かな南フランスも、西暦535年の大災害は深刻な影を落としていました。 都市は食糧の消費地で生産地ではありませんから、飢饉で食糧供給が止まり、衰退してしまったのです。 おりしも東ゴート王国は、イタリア半島の覇権を巡って、東ローマ帝国と激しい戦争を繰り広げており、南フランスの窮状に対応する余裕はありませんでした。 その間隙を突き、537年、三者が連合したフランク王国が東ゴート領に侵攻し、プロヴァンス地方を奪いました。 東ゴートは同族の西ゴート王国(現在のスペイン)に助けを求め、スペインから南フランス、イタリア北部にかけての地域は両者の戦場となりました。 542年、クロタールとキルデベルトに率いられたフランク軍は、ヒスパニア(スペイン)な侵攻し、西ゴート王国を戦争から脱落させることに成功しました。そして翌543年、東ゴートの本拠地、イタリア侵攻を意図しましたが、戦争はここで終焉を迎えます。ペストがフランスに来襲したからです。 ペストは瞬く間に南・中部フランスを席巻しました。ローマ帝国時代から整備されていた交通網は、疫病の迅速な伝播に「貢献」してしまったのです。 「ペストが蔓延しはじめると、各地で膨大な数の人々が亡くなった。遺体は余りにも多かったので数えることすら不可能だった。棺と墓が不足し、ひとつの墓に10体以上が埋葬された。(ひとつの)教会だけで、ある日曜に300体の死体が運び込まれた。死に神は素早かった。蛇にかまれたような傷口がひとつ、股間や脇の下に出来ると、その毒で2,3日目には死んでいた(トゥールのグレゴリウスの記録)」 戦乱と飢饉、ペストに痛めつけられた南フランスの都市は完全に衰退してしまいました。そしてペストで大打撃を受けたフランク軍は、イタリア侵攻を断念して、南フランスから撤退しましたが、フランク兵についてペスト菌を持ったネズミたちも北に付いていったため、ペストの北フランス拡大に繋がりました。 大打撃を受けたフランク王国は北フランスに閉塞し、占領した南フランスは北から間接統治する方針に転換しました。当然イタリアへの侵攻は放棄です。 この決定は重大な影響を後世に与えることになります。フランク人は南フランスへの進出を諦め、北部の開発を淡々と進めていくことになりますが、その結果、パリやオルレアン、ランス等の現在に繋がるフランスの大都市の発展していく切っ掛けになりました。 そして南部に住むローマ人やガリア人は、フランク人に同化吸収され、「フランス人」へとなっていくことになったのです。 歴史に「if」は禁物とよく言われますが、もし四半世紀早くフランクの南進がおこなわれていたら、歴史はどうなっていたでしょうか。 フランク族は、文化が栄え経済豊かな南フランスに、活動を遷していたかもしれません。そしてフランク人はローマ人やガリア人に同化していき、イタリアへの政治的な野心を持ち続けたかもしれません。かつてのゴート人たちがそうでした。 そして手薄になった北フランスは、今と異なる民族が進出して別の国家を建国していたかもしれません。世界地図はどれぐらい変わったでしょうか。 また、クロタールが殺されなかった事も、その後のヨーロッパ史に重要な影響を与えました。 彼は兄と甥の死後、フランク王国を再統合して王国の繁栄期を築きます。 メロヴィング王家には、カロリング家が宮宰(簡単に言えば、公的な職務も司る執事になります)として仕えるようになりますが、そのカロリング家の子孫カール・マルテルが、トゥール・ポワティエ間の戦い(732年)でイスラム帝国の欧州侵攻を阻止して、西欧文明を守ることになります。 もしクロタールが殺されていたら、カロリング家がフランク王国に仕えることはなく、イスラムの侵攻の前にフランク王国は屈して、西欧もイスラム化していたかもしれません。 クロタールが生き残ったことが、現在のフランス、そして西欧文化圏の形成に大きな影響を与えたのです。 そう考えると、 偶然の産物にしか見えないソワソンでの雹の来襲による戦闘の終結と和解が、大きな変化となって歴史に影響を与えたことになります。 えてして 「事実は小説よりも奇なり」ということはあるものです。
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