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2017.01.12
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カテゴリ:西暦535年の大噴火

友人と 

ヨーロッパの話は、イギリスとフランスだけにしようと思っていたのですが、それだと寂しいので、もうひとつ書くことにしました(そんな理由かよ)。とりあえず、ヨーロッパの部分を早くに完結させたいと思います。
3つ目の国はイベリア半島のスペインです
(地域的にはポルトガルも含みますが、話に出てくるところのほとんどはスペインになります)
スペインを選んだ理由は、ローマ帝国時代から発展していた地域で、当時の記録が比較的残っているからです。現在のドイツや北欧などは資料が少ないし、ただでさえ欧州の古代史が専門外の私めには荷が重いです(汗)。

そういうただれた理由でスペインです。

さて、地中海の西端に位置するイベリア半島は、大西洋と地中海の境界であり、ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸の境界でもあります。
そのような地理的な特性から、古くは先史時代から、アフリカから欧州への人類の進出路になっていました。
有名なアルタミラ洞窟壁画
(最古の壁画は約1万8500年前のもので、その後約4千年にわたって、壁画が次々に描かれました。そして約1万3千年前に落石出入り口が塞がり、現代まで密閉保存された形になりました)があるのは、スペイン北部カンタブリア州です。

そして古代文明の時代になると、地理的な重要性から、古くはギリシア人やフェニキア人たちがイベリア半島に植民市を建設し、カルタゴ(フェニキア人の国)がイベリア半島を支配しました。

同地をローマがカルタゴから奪ったのは、紀元前202年のことです。

ローマの支配は500年続き、現地のケルト人、イベリア人たちはローマ人化していきました。

ヒスパニアで産される金や毛織物、オリーブオイルやワイン等はローマを支える資源・物資の策源地となり、ローマの征服戦争を下支えしました。

そのローマの支配が崩れるのは、4世紀に始まった民族大移動でした。ライン川を越えて侵入してきたゲルマン系民族は、ガリア(フランス)だけでなく、ヒスパニア(スペイン)にも押し寄せてきたのです。

一度は撃退したものの、この頃の西ローマ帝国は軍事力が弱体化の一途をたどっており、次々に侵入してくるゲルマン人たちを撃退し続ける力はありませんでした。

そこで西ローマ帝国は、西ローマ皇帝に臣従を誓ったゲルマン人の一派西ゴート族(元々は今のスウェーデンあたりに住んでいたと考えられています)に、他のゲルマン人たちを討伐することを条件に、占領地の支配を認める方針に転換しました。
その結果、ヒスパニアとガリアの支配を認められて誕生したのが西ゴート王国(415~718年)でした。

西ゴート王国は、フン族(民族系等不明です。一説には中国の北方を脅かしていた匈奴とも言われています)の侵攻を撃退して、西ローマの番犬の役割をこなしながら密接に結びつきを強め、ゲルマン系諸民族の中で、最も早くローマ化しました。

両者は蜜月でしたが、一つだけしこりがありました。西ゴート族はキリスト教アリウス派を信仰しており、キリスト教のローマ・カトリックを信仰していた西ローマ帝国と教義が異なっていました。
西ゴートの支配地域は元々西ローマ領であり、住人はローマ・カトリックを信仰していました。この微妙な、しかし重要な違いが、影を落としていくことになります。

ここで少し脱線ですが、宗教感覚に疎い日本人から見ると、「同じキリスト教なのに」と、大きな問題に見えないかもしれませんが、キリスト教国にとっては今でも大きな問題です。

キリスト教の教義の違いは、正統と異端という二元論、簡単に言えば「こちらが正しくて相手が間違っている」としか考えません。
極端な言い方をすると、異教
(例えばイスラム教や仏教)を信仰しているよりも、同じキリスト教徒なのに、異なる教え方を信仰をしていることの方が罪深いと考える人が多いのです。

この問題は、21世紀になった今日でも、カトリックとプロテスタントの教義違いに拘って結婚を反対されたり、就職を差別されるなどの話は無くなっていません(昔よりは差別は少なくなっていますが)。そして1400年前のこの時も、大きな影響をもたらすことになります。

西ゴート王国に逆風が吹き始めるのは、西ローマ帝国が滅亡して、西欧に戦乱が訪れてからです。

現在のベルギー・フランス北部に勃興したクローヴィス1世のフランク王国は、混乱に乗じてガリアの西ゴート領に侵攻しました。
ガリアの住人たちは、アリウス派を信仰する西ゴートではなく、ローマ・カトリックを信仰するフランクの方を歓迎し、迎え入れました。

両者は507年にヴイエで戦いますが、フランク側が勝利し、西ゴート王アラリック2世が敗死すると、西ゴート王国はガリアの大半の領土を失い、その支配は動揺しました。

そして540年代になると、大飢饉が西ゴートを襲い、さらに再びフランク王国との戦争に巻き込まれることになりました。大飢饉にあえいでいたフランクが、イタリアとスペインに侵攻してきたためです(前回のブログのところまでの話です)

西ゴート王テウディス(位531~548年)の奮戦で、スペインからフランク軍を撃退することに成功しましたが、ピレネー山脈の北の領土はすべて失い、また混乱に乗じて、南スペインの大半を東ローマ帝国の侵攻で失って、戦争は西ゴートの敗北で終わりました。

そして戦後、大飢饉に加えてペストの流行が始まると、国内の動揺はさらに激しくなり、民衆の不満は「異端の教義」を信仰する西ゴート王家に向けられるようになりました(ペスト流行前、当時のスペインの人口は約400万人と言われています。支配者の西ゴート人の人口は約30万人で、人口比はそのまま信仰宗派の違いでもありました)

住民の大半を占めるカトリック教徒から見れば、王が異端の教えを信仰しているから、飢饉や疫病、そして戦争が襲ってきたのだと見なされたのです(戦争については、当たらずとも遠からずかもしれません。フランク(ローマ・カトリック)、東ローマ(東方教会)は、侵攻の口実を、「異端信仰をしている西ゴートを討伐する」としていたからです)

住民の離反に飢饉とペストの死者が増えるに従って、西ゴート王国の弱体化は激しくなっていきました。国の財政は悪化し、軍事力を維持出来なくなっていったからです。西ゴートの支配層にとって、アリウス派を信仰し続けることは重石になってきました。

西ゴートに忠誠心を持っている非ゴート系の住民の多くは、王や貴族たちが、ローマ・カトリックへ改宗することを望んでいましたが、ゴート人の多くはそれに反対でした。

ゴート人たちがアリウス派に改宗してからすでに200年以上たっていました。信仰はゴート人たちに深く浸透しており、彼らに欠かせない文化になっていたのです。

また仮にローマ・カトリックに改宗したとしても、東ローマ帝国との対立関係は続きますから、戦争の危機が無くなるわけでもありません。

このどちらも選択できない状況は、西ゴート王国の政局をどんどん不安定化させていくことになります。

次回は、衰微をたどっていく西ゴート王国の末路について触れてみたいと思います。






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Last updated  2019.01.06 21:16:39
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