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2017.01.14
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カテゴリ:西暦535年の大噴火
へばっている私2 
548年、テウディス王は宮殿で暗殺され世を去りました。
テウディス王は、フランクと東ローマの侵攻から国を守った王でしたが、戦後、ローマ教皇やフランク王国との関係改善を図ろうとしたため、これをカトリックへの改宗を意図していると見なした保守派によって、暗殺されたのです(彼がカトリックへの改宗を考えていたかは不明ですが、国内をまとめ上げるにはカトリックとの融和は必要と考えていたようです)
次のテウティギセル王(在位548~549年)も、テウディス路線を踏襲したことから、宴会中に刺殺されて短い治世を終えました(西ゴートの記録では、「テウティギセル王が宮廷で売春行為をおこない、ゴート人の品性をおとしめた」事が、暗殺された理由とされています。彼の素行が良くなかったのは確かようですが、宗教問題と素行のどちらへの反発が強かったのかは不明です。フランスのところで出てきた歴史家トゥールのグレゴリウスは「ゴート族は貴族たちに望ましくない王を、自らの手で殺害し、自分たちに好ましい王に取り替えるという非難されるべき慣習を持っていた」と、ゴート人の民族性が原因という見解を記しています)
テウティギセル王暗殺を主導したのは、ゴート人貴族のアギラ(アギラ1世 在位549~554年)でした。
保守系ゴート貴族たちの推挙で王位についたアギラは、先々代、先代王と異なり、熱心なアリウス派信者であり、強い反カトリック政策をとりました。その結果、各地でカトリック教徒の反乱が起きました。
反アギラの指導者はアナタギルド(在位555~567年)というカトリックとの穏健派のゴート人でした。
西ゴート国内は、アリウス派を信仰するゴート人たちはアギラ王につき、カトリック系の住人や穏健派のゴート人たちはアナタギルドに味方し、内戦が始まりました。
両者の争いは膠着しましたが、その天秤に変化を与えたのは、ローマ帝国復活の野望を持つ東ローマ帝国のユスティニアヌス帝でした。
彼は553年に東ゴート王国を滅ぼしてイタリア半島を奪還しており、西ゴートの混乱を見て、ヒスパニアもローマの手に取り戻す好機と見たのです。
554年、ユスティニアヌスはアタナギルドと同盟して東ローマ軍はセビリアに侵攻し、アギラ王は敗死しました。
これにより西ゴート王となったアタナギルドですが、地方ではアギラ派が激しく抵抗して、彼の権力基盤は不安定でした。
足元を見たユスティニアヌスは、盟約に背いて東ローマ軍が占領した地域を西ゴートに返還せず、西ゴート領の大半を東ローマ領化しました。
東ローマの後ろ盾を失えば王位を失いかねないアタナギルドは、ユスティニアヌスに屈しかけますが、これを見たアギラ派の貴族たちは、アタナギルドと和解して彼の王位を承認する姿勢に転換しました。
ユスティニアヌスの専横を許せば、西ゴート全土が東ローマ帝国に併呑されてしまうことを危惧したのです。
さらに西ゴートに影響力を拡大したい北のフランク王国は、東ローマ帝国がイベリア半島に進出することを望まず、アタナギルド王を承認して支援したため、彼は東ローマとの戦争に踏み切りました。ここに20年に及ぶ両者の戦争が始まることになります。
 
そして589年、レカレド1世(在位586~601年)の時、西ゴート王国はカトリックを公認して王は改宗しました。
東ローマとの長い戦争で困窮していた西ゴートは、すでにフランク王国の支援無くして戦争継続は出来なくなっていました。加えて非ゴート人の国民統治を円滑にするには、少なくとも王だけは、アリウス派の信仰を守り続けることは出来なくなっていたのです。
おりしも東ローマとの戦争は、戦線縮小を図っていたマウリキウス帝(ずいぶん前に彼のこと触れたなぁ)の時に終わらせることが出来たので、ようやく西ゴートに平和が訪れるかに見えましたが、今度は王の改宗に反発したゴート貴族たちの反乱がまっていました。
反乱をどうにか鎮圧したレカレドですが、それがもたらした結末に悄然としました。
長い戦争と内戦により、かつては精強を誇ったゴート貴族たちの多くは死に絶え、その軍事力は衰退しきっていました。加えて、王国を支えるのは非ゴート人の新興貴族たちになっていました。カトリック教徒が西ゴートを支えていたのです。
彼は、今まで信仰していたアリウス派を徹底的に弾圧して根絶やしにしました。なぜなら異端の教えを信奉するものがいれば、フランク王国などに戦争の口実を与えることになりかねないと考えたのです。危険の芽は摘むに限ります。西ゴートは全力を挙げて敬虔なカトリックの国であることをアピールしました。
その行動は、一種強迫観念となってこの後西ゴート王国を支配続けることになります。
​アリウス派が地上から消滅すると、西ゴートの宗教弾圧は、今度はユダヤ教徒への迫害に変化しました。これが欧州におけるユダヤ人迫害の起源と言われています。​
 
一連の親カトリック政策は、西ゴートの社会を根本から変化させました。
改宗の結果、ゴート族固有の文化は消滅しました。ゴート語は死語となり(現在のスペイン語でゴート語起源の言語は、単語がいくつか残っているだけと言われています)、西ゴート人たちの話す言語は、ヒスパニアのラテン語方言(この後アラビア語と混じりながら、現在のスペイン語に発展していきます)になりました。
ゴート人は非ゴート人に吸収され、ゴート族は「消滅」しました。
カトリック国として再生した西ゴート王国は、621年にイベリア半島を統一しましたが、すでにゴートの軍事力を失った王家は、名ばかりの存在でしかなく、統一も形だけの国になっていました。そのため711年にイスラム帝国の侵攻を受けると、あっけなく西ゴートは破れ、718年に完全滅亡しました。
 
現在のスペイン文化に、ゴートの面影は皆無です。彼らは6世紀半ばから始まった戦乱と混乱の中で消えていきました。
ゴート人が非ゴート人に同化していったことで、スペインは再びローマ人などのラテン系民族の国へと回帰していくことになりました。
そのため後のイスラムによるスペイン征服、レコンキスタ(キリスト教徒によるスペイン再征服運動)では、フランスやイタリアの諸侯はスペインのキリスト教徒を支援しますが、これはキリスト教とイスラム教の対立という図式の他に、同じ民族を助けるという同族意識を持っていたからです。
このように見ていくと、イングランドやフランスと同様、6世紀のスペインにおきた混乱と変遷は、現代に繋がる大きな選択の時代であったといえそうです。
 
しかし一方で大変動は負の遺産も残しました。
西ゴート王国が主導したユダヤ教徒への迫害は、イスラムの支配下でいったん終了しましたが(この頃のイスラム教徒は、ユダヤ教徒やキリスト教徒を「啓典の民」として改宗は求めず、大切に扱いました)、地下水脈のように欧州全土にその根を張り巡らし、十字軍時代を迎えると、ユダヤ教徒とユダヤ人に対する大きな人種迫害へと発展し、その負の影響は現代にまで繋がっていくことになったのです。
 
これで欧州の話は終わりです。次は、東アジアの話に(なるべく早くに)移っていこうと思います。





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Last updated  2018.12.31 01:38:45
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