3332050 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

鳥です

鳥です

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

Profile

ばーど白鳥

ばーど白鳥

Category

Calendar

Comments

ばーど白鳥@ Re[1]:だめだめだった9月(09/29) reo soraさんへ 先日施設から連絡が来ま…
ばーど白鳥@ Re[1]:だめだめだった9月(09/29) 岡田京さんへ 季節の変わり目も辛いです…
reo sora@ Re:だめだめだった9月(09/29) 不調の原因は低気圧の影響なんですね。 お…
岡田京@ Re:だめだめだった9月(09/29) 猛暑で傷んだ身体に季節の変わり目が追い…
ばーど白鳥@ Re[1]:だめだめだった9月(09/29) ふうママ1130さんへ お店をされていると…

Headline News

Favorite Blog

蘇った思い出・・・ New! ふうママ1130さん

上着がいらないくら… New! reo soraさん

変わり者? 11月… New! ララキャットさん

出来はいまひとつで… New! 元お蝶夫人さん

つかれた~~~ New! ∂ネコの手∂さん

2017.12.22
XML
カテゴリ:西暦535年の大噴火

ポーズ

どうもいけない。中世の中国史(南宋時代の外交史)を大学時代にやっていたせいか、中国史になると暴走気味になります(汗)。これでも押さえているつもりなんですけどねぇ・・・。

などと、謙虚っぽい台詞はここまでにして、今回も全開で脱線話、魏晋南北朝時代と中国の地理的な違いなどについて、簡単におはなししたいと思います。

・・・簡単に終わらせられるだろうか(汗)。

 

はじめに魏晋南北朝時代という時代についてです。

具体的な年代区分は、黄巾の乱によって後漢が衰退し始める西暦184年頃から、隋が中国を統一する589年までです。

日本で有名な『三国志』の時代(220~280年。広義には184~280年頃まで)は、魏晋南北朝時代の一部分になります。

『三国志』が有名すぎて、他に目が向かない人も多いかと思いますが、それ以外の時期も、三国志に勝るとも劣らない、魅力的な人物が多く登場する非常に面白い時代です。

歴史学的に見ると、中国で仏教が広まって定着していくのはこの頃ですし、邪馬台国以降の日本も、継続的に大陸と関わりを持って、世界史上に足跡を残していくのもこの時代です。

しかし一方で魏晋南北朝時代は、歴史の研究家でも思わず敬遠したくなるような後味の悪さ、悲惨さがあります。

この時代を象徴する言葉として有名なのは、南朝宋(春秋時代の宋や、後年の統一王朝の宋と区別するため、国姓(皇帝の姓)をとって、劉宋と呼ばれています)最後の皇帝順帝(劉準。位477~479年。僅か13年の生涯と伝わっています)の、「願後身世世、勿復生天王家(生まれ変わることが出来ても、二度と皇族に生まれたくない)という悲痛な言葉でしょう。

中国史において、戦乱期は数多くありますし、王朝の滅亡に関わる悲劇は無数にあげることが出来ますが、この時代の陰惨さ、血生臭さは格別です。

春秋戦国時代(紀元前770年頃~紀元前221年)や三国志などでは、滅ぼされた側の武将などが、滅ぼした側に新たに仕えて活躍する話は多く出てきます。

​古代、周に滅ぼされた殷(商)の王族も、周の諸侯の一つ「宋公」に列せられ、子孫は長く命脈を保ちましたし、(前)漢初代皇帝劉邦(漢の高祖)も、漢帝国成立後、ライバルの項羽の叔父に、国姓の劉姓を与えて諸侯として遇しています。​

​​またこの時代よりだいぶ後の王朝になりますが、(北)宋を建国した趙匡胤(宋の太祖)のように、宋に禅譲(皇帝位を譲ること)した後周(951~960年)の皇族一族子孫を手厚く保護し、自らの子孫にも家訓として、300年にわたって守らせた王朝もありますが(南宋が元(蒙古)に滅ぼされた時、後周皇族の当主は、宋の幼い皇帝を守って討ち死にしています)、魏晋南北朝時代は真逆でした。​​

王朝が滅ぶ時、皇族や有力重臣一族は、幼児に至るまで皆殺しにされ、平時でも権力者から危険視されたり、功績を妬まれたりすれば、有力な重臣や武将であろうが、罪を着せられて一族皆殺しの憂き目を見るのは当たり前でした。

また一端は体面のため助命されても、後日暗殺される事も数え切れません。王朝上部の陰惨さに加え、長い戦乱が絶え間なく続いて庶民は苦しみ、世は死臭の絶えない生きにくい時代だったと言えるかもしれません。

それは同時代に人々も感じていたようで、有能であるが故に歴史の表舞台に立つのを避けて、野に隠れて生きた知識人たち、竹林の七賢の逸話なども伝わっています。

 

さて、上であげた宋の順帝の話を例に、暗い時代の一端をお話ししたいと思います。

まだ10歳の少年だった順帝が即位した時、実質的に劉宋は滅んでいました。

建国以来、劉宋の皇族たちは内部で帝位を狙って争い、殺し合いが絶えず(劉宋59年の中で、計8人の皇帝が出ましたが、暗殺された皇帝は5人に及びます。どれだけ内部で争いが激しかったかが伺えます)、皇帝権力を失墜して、王朝は弱体化の一途をたどっていました。

順帝の兄後廃帝(劉呈。位472~477年。皇帝即位前より、殺人を好む暴君だったと伝えられています。しかし、実物以上の暴君に脚色された可能性があるとも言われています)が、朝廷の実権を握っていた蕭道成(後の斉の高帝)によって殺害されると、弟の彼が皇帝に擁立されました。

しかし少年の彼に実権があるわけが無く、蕭道成の傀儡でした。

そして順帝が安心して過ごせる場所は、国内に一つもありませんでした。

彼の行動は常に監視され、食事に毒が盛られていないか怯えて過ごさねばなりませんでした。宮殿から一歩も外に出ることも出来ず、蕭道成の息のかかった側近としか会話も許されません。鳥籠の中の鳥より不自由な身の上でした。

彼の運命は、即位した(正確に言えば、本人の意志とは無縁ですが)時からすでに決まっていました。

もし傀儡師の意に添わぬ行動をしたり刃向かったりすれば、容赦なく彼は殺されるでしょう。しかし蕭道成に素直に従ったとしても、近い将来に皇帝位を譲らされて用済みになった後に未来はありません。

つまり順帝の人生は、今すぐ蕭道成に逆らって殺されるか、それとも従順に過ごして、ほんの短い間だけ生きていられる時間が得られるかという程度のものだったのです。

そのことは、宋の宮中や民衆だけでなく、敵である北朝北魏の朝廷も、さらに順帝本人も知っていました。

​​479(昇明3)年4月、順帝は蕭道成に禅譲して劉宋は滅び、新たに斉(479~502年)という王朝が誕生しました。​​

「生まれ変わることが出来ても、二度と皇族に生まれたくない」と、順帝が泣きながら発言したのは、退位して宮殿を出る時の言葉と伝えられています。

彼は斉の高帝から汝陰王に封じられ、不臣の礼(臣下扱いしない特別待遇のこと。例えば「陛下」という尊称で呼ばれることや、「朕」と言う皇帝の一人称を用いることが認められました)を許されましたが、それは新皇帝の「慈悲深さ」をアピールするだけのもので、高帝に少年を生かしておく気は全くありませんでした。

退位の翌月には順帝は暗殺され、13年の薄幸な生涯を閉じました。

こう見ていくと、「二度と皇族に生まれたくない」という言葉の重さを、聞く側は感じずにはいられません。ただ殺されるだけの生涯だった彼の、切なすぎる魂の叫びだからです。

元からそういう時代ですから、これに西暦535年の大災害が加わることで、どれほど暗い話が多くなるかはお察し頂けるかなと思います。

ぶっちやけ、前に触れた東ローマ帝国のフォカスの乱のような記述が多くなる感じです(汗)。 

(続きます) 






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2022.09.10 20:04:55
コメント(2) | コメントを書く
[西暦535年の大噴火] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.
X