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カテゴリ:西暦535年の大噴火
次に中国の、南北の文化の違いについて触れてみたいと思います。 中国の文化圏は、南北で大きく異なります。 元々中国の文明は、黄河と長江それぞれに、異なる文化として発生・発展したものが、春秋時代(紀元前770~紀元前403年)に互いの文化圏が接した結果、まじりあって関わり合いを持つようになったと考えられています(黄河文明は約4千年の歴史、長江文明は約5千年の歴史があると言われています。ただし黄河側より古い長江側の文明は、中国歴史学会にとって「中国の文明は黄河から始まって現在に至る」という定説にそぐわなくなるため、冷遇されてろくな研究が進められていません。ちなみに二つの文明が別物であることの傍証としては、春秋時代、中原の諸侯が君主号を「公」として、「王」は周王室のみとして憚ったのに対して、長江側の楚や呉、越などの国は「王」を、最初から君主号としている点などが指摘されています)。 両文明の境界線になるのが淮河と言う川です。丁度黄河と長江(揚子江)の間に流れています。 古くは春秋時代の楚から、12世紀の宋(南宋)と金(今の中国東北部で勃興した女真族が建てた制服王朝)など、北部と南部の王朝の国境にもなってきました。 はじめに華南と華北の住む人々の正確に違いについて見てみたいと思います。 それぞれの住人の性格は、孔子(儒教)と老子(道教)という、中国を代表する2大思想家の考え方の違いを見れば、おおよその見当をつけることが出来ます。 黄河側の孔子が、人間の特性として、徳(人間の持つ気質や能力に、社会性や道徳性を獲得した性質)や仁(人を思いやる心)を重視して、規律正しく人格を磨くことを是としたのに対して、長江側の老子は無為自然、無理をせず自然に生きることを説いています。 突き詰めると、中原(黄河流域)の人々は、秩序や規律といった点を重視する性格なのに対して、長江側はのんびりした性格という色づけが出来ます。 この考え方の違いは、南北の環境の違い(南は温暖な気候で食料が豊富なのに対して、北は耕作などを努力しなければ飢えてしまう)が大きな影響を受けていると言われています。 秩序と規律を重視する中原側は統一志向が強く、春秋戦国時代から戦乱が絶えません。対して長江側は、春秋時代の楚から、中原の争いに参加するようになるものの、中原の諸侯と違って中国を統一しようという志向はなく、自分たちの利益になると思えば、戦乱に首をつっこみ領土や権益を拡大していく感じでした。 黄河側が大義名分に拘るのに対して、長江側はあくまで自分たちのコミュニティの実利第一でした。 そんな双方の性格に大きな変化をもたらしたのが、魏晋南北朝時代でした。 永嘉の乱によって乱れた中原に、北方の遊牧民族が多数侵入してきました(西晋末期(304年)から北魏の華北統一(439年)までを、細かい時代区分でいうと、五胡十六国時代と言います。五胡とは5つの騎馬民族で、匈奴族、鮮卑族、羯族(三者とも民族系統不明)、羌族、氐族(両者ともおそらくチベット系)と漢族で、計16の王朝を華北にたてました)。 彼ら騎馬民族たちは時代が進むにつれて、人口の大半を占める漢族に文化的にも人種的にも同化、吸収されていきましたが、一方で漢人たちも、彼ら遊牧民の質実剛健の考え方に影響を受けました。 儒教の影響で、はじめは騎馬民族たちを野蛮人と蔑視した漢人たちでしたが、異邦人が当たり前のように隣人になっていったことから、漢字と漢語(中国語)になじみ、漢文化に同化した彼らを、同胞と認める協調性と、柔軟性をもつドライな気質にしていったのです(民族主義が強かった五胡十六国時代の頃は、他民族を大虐殺する事件は何度も起きていますが・・・)。 黄河側とは逆に、長江側では排他主義が芽生えていくことになりました。 晋が再興(これ以降は東晋と呼ばれます)され、江南社会が大きく改変された結果でした。 華北から逃れてきた漢人たちは、華南に住む漢人たちを蔑視する風潮がありました。儒教的な価値観を持つ彼らから見ると、道教的な価値観を持つ長江側の漢人たちは、おおざっぱでいい加減に見えたのです。 これは亡命者たちの多くが、皇族や貴族などの支配者階級が多かったことが、その考えに拍車をかけました。一種の純血思想に発展したのです。支配者層は、異民族に毒された中原の漢人ではなく、自分たちが正当な中華の民であり、文化の担い手であるという自負を持ちました。 世界史の資料集などを見ると、南朝文化(六朝文化)は、武より文を貴ぶ貴族的な文化と書かれいますが、漢文化の優越性を立証するために、必死に確立されたという側面・背景があったのです。 そして南朝の文化的な活動には、もう一つ大きな命題がありました。それは異民族に奪われた中原の奪還であり、それを正当化する理論の構築でした。利用されたのが儒教でした。 前漢時代に国教化されて以来、長江側でも儒教教育が進められていましたが、もともと道教色が強いこの地域では、この頃まで士大夫層(官吏を排出した階層)をのぞいてはほとんど普及していませんでした。 東晋の朝廷は、庶民レベルまで徹底した儒教教育の普及に努めました。 なぜ儒教だったのかと言えば、実質的に亡命政権である東晋王朝にとって、都合が良かったからです。 儒教は、「子は親に逆らってはいけない」というように、規律と秩序を重んじます。支配者側から見れば、王朝への忠誠心を植え付けられるものだからです。 そして儒教的な倫理観を突き詰めて考えれば、中原や華北を「不法占拠」している異民族は悪であり、奪われた領土を取り戻すための戦争は、正義であると正当化出来るのです。 このような儒教的思想が浸透し、華北から逃げてきた漢人たちが長江側の人々と同化していくに従って(ただし東晋王朝は、亡命政権の性格を克服できずに政権の地盤が弱く、滅んでいくことになります)、現地の人々の性格も変化していきました。 もともと分権的な色彩の濃い長江側は、郷土色の強い排他性のある住民性を持っていました。それが儒教的な純血思想と結びついて、強い特権意識と選民意識を持つようになっていきます(それが思想的に完全に確立したのは、この時代から約700年後の南宋時代に、朱子学が成立してからです)。 現代の中国を見ても、ドライな気質もを持つ黄河側の人々に対して、長江側の人々は、自分の主張は絶対譲らず、非常に頑固でウェットな気質を持っていますが、それは南北時代以降に形成されてきた性格なのです。 そして南朝側で芽生えた選民思想は、朱子学以降、「中華思想」へと発展して、現代に続いてくことになります。 (続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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