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カテゴリ:西暦535年の大噴火
次に地理的な条件の違いについてみてみましょう。 中原のある華北地方は、北はモンゴル高原、西のシルクロードを通じて、遊牧民族が流入するなど、古来より人の出入りが多い地域でした。そのため西方から製鉄などの新しい科学技術もいち早く取り入れられ、発展していきました。 また、黄河は暴れ川で、常に治水の必要があったことから、強力な指導者を必要としました。そのため王権の確立も早く、中央集権的な王朝の主導により、大規模な農地開発も進められたため、必然的に人口も多くなりました。 それに対して長江側は、東に太平洋、西は険峻なチベットの山々、南は熱帯雨林と山岳に囲まれていたため、7世紀頃までは、北の中原と、南は今の北ベトナム地域にだけ、窓口が開いているだけでした。 長江は黄河に比べて大人しく、さして治水の必要がなかったので、中央集権的な王の権力は強くならず、力を持つ貴族層が形成されて、分権的な色彩が強くなりました。 そんな政治的な事情や、気候も温暖で農村物も豊かであったことから、北ほど農地開発は進みませんでした(長江流域の開発と、人口の増加が急速に進むのは、華北を異民族に征服されてしまった南宋時代(12世紀)以降になります)。 人口比は時代により異なりますが、三国時代頃は北の魏(華北一帯)が75に対して、呉(江東・江南地方)と蜀(四川地方)を併せて25ぐらい、南北朝時代頃は、北朝が7に対して、南朝が3という感じになるかと思います。 人口の多寡は、国力や、軍の動員能力にも影響しますから、戦争は南朝の方が不利でした。 また地理的条件で、もう一つ無視できないのが、南北の交通手段の違いです。 中国には南船北馬という言葉があります。 これは中国南北の交通手段の違いを端的に表している言葉です。 南は長江だけでなく、小さい河川や湖、沼地も多く、交通手段は船が中心でした。対する北は、黄河を除けば、平原や山地が多いので、馬による交通手段が発展しました。 古来中国の中心地は黄河周辺の中原で、ここをとった者が天下を取ってきました。長江側は、船を操るのは巧みでも、馬は余り得意ではありません。 中原の戦争は、どうしても馬が重要な役割を果たしますから、長江側の王朝は不利でした(ついでに言いますと、中国歴代統一王朝の中で、唯一長江側で誕生して中国を統一することができたのは、明王朝(1368~1644年)だけです。元末明初の頃になると、華北は金や蒙古との戦争で荒廃し、華南は北から逃げてきた人々で人口が増加し、開発も進められて、南北朝時代と人口比が逆転していました)。また、郷土愛が強い住民性故に、故郷から遠く遠征することもいやがりました。 その辺は、勘の鋭い方は『三国志』を読んでいて感じることが出来るでしょう。 蜀と同盟を結んだ呉は、魏と戦争はするものの、一戦交えると、勝利してもそれ以上北へ進出することなく、いつも兵を引いてしまいます。 これは魏との冠絶した国力差から、全面戦争になることを回避したかった点や、故郷から遠く離れたくない江南の兵士たちの思惑が、複合的に絡み合った結果なのです。 また西の蜀(四川地方は、華北・華南双方の要素を持った地域です)も、劉備に蜀を乗っ取られるまで、中原の戦乱には無関心を通しています。こちらは事は少し事情が異なりますが、蜀の人々が中原に出るには、険峻な秦嶺山脈を超えなくてはなりません。しかし蜀は食料豊かな土地なので、命がけで秦嶺山脈を越えてまで、中原の戦争に参加する意思は希薄だったのです。 しかし漢の皇族を自称する劉備が漢中王となり、後漢王朝が魏に禅譲して無くなると、蜀は「正当な漢王朝の後継者」との立場を国是としたため、魏との戦争に積極的になっていきます。 もし劉備の入蜀が無ければ、この地方は自然に中原王朝の支配を受け入れていたかもしれません(ちなみに、私は簡潔に「蜀」と書いていますが、正式な国名は「漢」です。歴史学的には、前漢・後漢と混同しないよう、「蜀漢」と呼ばれています)。 こういった様々な要因が、魏晋南北朝時代の南北の力関係に大きな影響を与えていました。 国力の劣る南朝は、北朝を苦しめることは出来てもそれが限界でした。春秋・戦国時代の楚、漢の劉邦(高祖)と天下を争った項羽(楚)、三国時代の呉もしかりです。 しかし南朝は北朝を打倒することは出来ませんでしたが、無力であった訳ではありません。 三国志で有名な赤壁の戦い(208年)では、曹操の大軍を呉の名将周瑜が破り、天下統一を断念させています。 三国時代以降の魏晋南北朝時代だけを見ても、淝水の戦い(383年。華北を統一して江南へ侵攻した前秦軍100万を、東晋軍7万が迎え撃ち、前秦軍は約30万の戦死者を出して大敗しました)、鍾離の戦い(506年。北朝北魏80万の大軍が、南朝梁の鍾離城(現在の安微省鳳陽県)を包囲しましたが、救援に来た梁軍20万の反撃で大敗し、20万を超す戦死者と、5万の捕虜を出して撤退しました)で北の侵攻を撃退して、中国統一を阻んでいます。 南が北に飲み込まれるか、それとも耐えうるかで、中国が統一国家になるかが決定されていたのです。 そう見ていくと、南朝側は国力の増強に努めて専守防衛に努め、外交交渉によって北朝と講和を維持することが、正しい生存戦略に思えますが、残念ながらそうはなりませんでした。 前に触れましたように、東晋の支配者層は華北出身でしたから、奪われた故郷の奪還、北朝を武力で倒すという考えに固執ししまた。 その思想は東晋滅亡後も南朝諸王朝を縛り、儒教教育の徹底と浸透にともない、綿々と唯一の戦略として受け継がれていきました。南朝に北朝と講和して戦争を終結させるという考え方は、一度も検討されることはありませんでした(一時的な和睦は除きます)。 こうして、南朝は北朝を滅ぼして天下を統一するか、逆に滅ぼされて消滅するまで、戦争は終われない状況になっていったのです。 南朝は東晋(317~420年)から宋(420~479年)、斉(479~502年)、梁(502~557年)と王朝交代しながら、200年以上に渡って北朝と戦争を続けていました。 そんな中、西暦535年の大災害を迎えます。 ・・・次回からようやく本題に入ります(汗) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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