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カテゴリ:西暦535年の大噴火
西暦535年時、中国南朝は梁という国で、皇帝は建国者でもある初代皇帝武帝(蕭衍。469~549年。皇帝位は502~549年。他の「武帝」と区別するため、「梁武」と言う言い方をされます)でした。 梁の支配地域は、淮河の南から四川省全域、さらに北ベトナム地域にまたかがる広大な地域でした。領土的には北朝北魏(正式国名は「魏」です。ずっと昔にアヴァールのところで触れましたが、鮮卑族の建てた国で、三国時代に曹丕の建てた魏とは関係ありません)より広大な領域です。 北魏と梁の慢性的な戦争は続いており、6年前には梁の名将陳慶之が、洛陽を一時的に陥落させたものの、形勢を立て直した北魏に敗れて、撤退を余儀なくされています。 この頃北魏は内紛が続いていて(535年に東西に分裂して、西魏と東魏になります)、梁を攻める余裕はなく、南朝は比較的平穏でした。 そこに西暦535年の大災害がやってきました。 「南西の方角で2回雷のような音がした」とは、『南史』に出てくる534(中大通6)年12月の記述(現在の時間軸に直すと、535(大同元)年2月ごろに相当します。なお、これからの記述は、特に注意をしていないときは現在の暦、時間軸にしてお話しします)。 梁の都建康(現在の南京)からクラカタウは約4千km離れています。そんな遠方で何が起きたのか、梁の人々が知る由もありません。 「雷」の音に不吉なものを感じたのか、それとも記録に残されていないものの、降灰などの被害があったのか、武帝は翌月大同元年に改暦して、自ら鍬をもって畑に畝を立てています(豊作豊穣を神に祈る儀式。5世紀に廃れた祀りでした)。 しかし武帝の祈りは天に届きませんでした。535年は凶作で、天候の異変もこの年だけにとどまらず、武帝は541年まで畝たての儀式を行うことになります。 「黄色い塵が手一杯にすくい上げられた(536年12月)」 「(537年)7月、青州(現在の中国山東省)で霜が降りた。8月雪が降り作物がやられた」 と、『南史』には、異常気象の記述が続きます。 黄色い塵が火山灰だったのか、それとも別の何かであったのかは判然としません。クラカタウの噴火は、桜島のような長期にわたって噴火が続くものではなく、短期間の爆発的な噴火であったと考えられているためです。 凶作と飢餓は540年代にいったん終息しましたが、再び酷い飢饉は549年と550年に発生しています。『南史』には、「春から夏まで大干ばつになり、人々は人を食べた」と悲惨な状況を記録しています。 梁朝は、餓死者が出ていることを理由に、538年に12の州で納税遅延を認める布告を出し、541年には国全域に納税遅延を拡大させました。しかし食料不足解消に有効な手を打てなかったため、各地で反乱が勃発しました。 541年交州(現在のベトナム北部)で李賁(漢化したベトナム人)が反乱を起こし、刺史(州の長官)の軍を破って独立を宣言しました。 梁は討伐軍を送ったものの激しい抵抗で攻めあぐね、反乱は長期化しました(梁将陳霸先によって完全鎮圧されたのは、548年の事です)。 続いて定州(現在の中国広西チワン族自治区貴港市あたり)でも暴動が発生し、貧民たちが大挙加わって、首都建康に迫る勢いになりました。 こちらは湘東王蕭繹(武帝の七男。後の梁朝第四代皇帝元帝)によって鎮圧されましたが、続く飢饉と反乱は、梁の支配体制と経済基盤を揺るがしました。 梁朝は治安維持のため、各地に軍を派遣しましたが、それらは中央政府の統率が弱まるのに反比例して各地で軍閥化し、さらに梁朝の弱体化をまねいていくことになります。 この時、梁朝にとって致命的だったのは、皇帝武帝が政務を放り出してしまったことでした。 武帝は、暴虐の限りを尽くした前王朝斉の東昏候(斉の第六代皇帝蕭宝巻。諡(おくり名)の意味は、「東のバカ殿」となります。さらに余談ですが、姓が同じ蕭であることからも察せられますが、蕭宝巻と蕭衍(梁の武帝)は親戚同士でした) を打倒し、大きな覇気と度量、そして知性を兼ね備えた人物でしたが、晩年苦楽を共にした臣下が次々に世を去り、父から一身に期待を受けていた皇太子蕭統(「昭明太子」と諡されています)が若くして病死(531年)すると、次第に厭世的となり、仏教に傾倒して国政を顧みなくなる傾向がありました(527年には出家騒動を引き起こします。この頃は民衆から半ば好意的に「皇帝菩薩」と呼ばれています)。 そこへ535年からの大災害です。 武帝は、災害を自分に対する御仏の罰であり、死者の冥福を祈ることが自分の責務と思い込むようになってしまったのです。539年には、彼の精神的なストッパーの役割を果たしていた名将陳慶之が病死すると、完全に歯止めがかからなくなりました。 武帝が放り出した国政は、枢機の朱异が淡々と処理しています。彼は『平家物語』で有名な「祇園精舎の鐘の声・・・」に後に続く、国に害をなし、風の前の塵のごとく滅んだ奸臣の一人として挙げられています(『平家物語』では「周異」となっています)。 しかし彼は『平家物語』で上げられた秦の趙高(秦の始皇帝に仕えた宦官(去勢されて男性機能を失った官吏で、中国では宮廷内の雑役に用いられました。そういう事情からか、人間扱いされずに便利な道具扱いされましたが、中には皇帝や皇妃の信任を得て、政治を壟断したり、不正蓄財に励むするケースも多々ありました。ちなみに良い業績を立てた宦官には、紙を発明した蔡倫がいます)で、始皇帝の死後、皇太子の扶蘇を自殺させ、自身が守役をした始皇帝の末子胡亥を二代皇帝に据えて、秦王朝の政治を大きく乱す原因を作って、滅亡の切っ掛けを作りました)や漢の王莽(前漢の元帝の皇后・王政君(孝元皇后)の甥で、外戚として実権を握り、漢王朝を簒奪して「新」という王朝を建てました。しかし現実を顧みない王莽の新王朝はすぐに破綻して戦乱となり、混乱の中で彼は殺されました)とは異なり、国政を不当に壟断したり私物化したわけではありません。 朱异は官僚タイプの人でした。この手の人は創造的な仕事をする能力はありませんが(官僚の仕事は、決められた規則を守って、事務的に処理していく職種ですからしたかありません)、組織を運営していく手腕には長けています。 皇帝不在の梁の国政が大きく乱れなかったのは、朱异の功績なのは間違いありません。 ではなぜ彼が、奸臣と呼ばれるようになったのか、そして梁の滅亡を決定づけることになる「侯景の乱」について、次回触れてみたいと思います。
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Last updated
2017.12.26 11:01:22
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