|
カテゴリ:西暦535年の大噴火
・・・超久々の西暦535年の続きです。 もうちょっと余裕もって、更新できればいいんですけどねぇ・・・。 南朝の梁が飢饉で苦しんでいるころ、北朝の西魏と東魏でも、凶作と飢饉が続いていました。 そんな548年、東魏の武将侯景が梁に帰順を申し出てきました。 侯景は戦場での武勲の多い人物でした(この時までに彼が唯一の敗北は、梁の名将陳慶之に破れた一回だけです)。 彼は東魏の丞相(大臣)高歓が死ねば、今までの功績から、自分がその地位になれると考えていましたが、高歓が死ぬと、その地位は息子の高澄が継ぎ、彼は冷遇されました。それを恨んで、自分の所領である河南地方を手土産に、梁に亡命しようとしたのです。 申し出を聞いた朱异は武帝に上奏せず、他の廷臣の反対を押し切って、独断で侯景の亡命を受け入れ、さらに梁軍10万を派遣して支援させることを決めました。 なぜ朱异が、反対を押し切って独断で事を進めたのか理由は不明です。 病床に伏せっていた武帝の心を乱すまいとしたのか、寒門(身分の低い家柄)から自分を引き上げてくれた武帝に、大きな功績を立てて報いたかったのか、それとも自身の利己的な打算があったのか。戦略眼なきこの企ては、梁に災厄をもたらすことになります。 梁の援軍派遣に気を良くした侯景は、「わしが号令をかければ三月で10万の兵が集まろう。しからば鄴(東魏の都)に攻め入り、子恵(高澄の字)の首を取ってやる」と息巻きましたが、言うまでもなく、罠にはまっていたのは彼の方でした。 高歓は死の直前、高澄をまねき問いました。 「侯景は猛獣のような男。わしは奴を使いこなすことができたが、そなたは年若く(侯景は)命令に従うまい。誰をもって奴を討たせるか?」 高澄は即座に、「慕容紹宗(東魏に仕えた名将の一人)に」と答えました。それを聞くと高歓は「それでよい」と笑って世を去ったと言われています。 高歓は自分が死ねば侯景が反乱を起こすであろうこと、そして戦上手の侯景を東魏で倒すことができるのは、この頃はまだ無名の将だった慕容紹宗しかいないと考えていました。 高澄が同じ答えを返したのを見て、息子がしっかりと対策を考えていたこと、人を見る目が確かな事に安心したのです。 侯景が侮っていた高澄は、父高歓のような老獪さはないものの、政治手腕に長けていたのです。 高歓の死後、高澄は侯景に高い地位や金品を送り、彼が気を緩めて油断すると、今度はあからさまに冷遇して、彼が準備不足なまま反乱を起こすよう仕向けました。 侯景は小僧と侮っていた高澄の手のひらで踊らされていたのです。 かくして反乱を起こした侯景ですが、高澄はその報を聞くや、ただちに慕容紹宗に30万の兵を与えて、貞陽侯蕭淵明(梁の武帝の甥)率いる梁軍10万を、彭城(現在の中国江蘇省徐州市)で急襲して壊滅させると、返す刀で侯景を攻めさせました。 完全に虚を突かれた侯景は、為す術もなく敗走し、高澄は三か月で河南全土を制圧しました(高澄は乱鎮圧の「功績」により斉王となり、高氏の東魏簒奪の基盤を既定路線とします)。 三か月で高澄を倒すどころか、逆に三か月で彼の反乱は鎮圧されたのです。 僅か1千にも満たない敗残兵を率いて、侯景は梁に亡命しましたが、敗残の彼に朱异は冷たい態度をとりました。もはや利用価値のなくなった彼を、相手にする必要を感じなかったのです。 朱异の危機感のなさを危ぶんだ梁将羊侃は、「侯景は手負いの獣。今すぐ捕らえねば大変なことになる」と進言しましたが、朱异は「敗残の将に何ができる」と取り合わず、事態を未然に収拾できる最後のチャンスを逃しました。 やはり朱异は、事務を淡々とこなすタイプの人で、突発的なことに対応する能力も、想像力を必要とする仕事もできる人ではありませんでした。 朱异が東魏との講和の条件に、自分の身柄を高澄に引き渡そうとしていることを知った侯景は、皇族の臨賀王蕭正徳(武帝の甥で養子。最初男子に恵まれなかった武帝から、皇太子として迎えられましたが、実子誕生後は他の皇族と同等に格下げされ、それを不満に思っていました)を誘って旗頭に据え、「君臣の奸(朱异の事)を除く。謀反にあらず」と宣言して、瞬く間に10万の軍を集めて進軍し、首都建康を包囲しました。 これだけの大軍がすぐに集まったのは、凶作時の梁朝の対応を民衆が不十分と考えていたこと、寒門出身の朱异を快く思っていなかった門閥貴族層が、反乱を支援したからです。 また彭城の大敗で梁軍が消耗し、残った軍も治安維持のために各地に分散していたため、反乱軍の進撃を阻止できなかった点も大きな理由でした。 地方の梁軍はそれぞれが少数だったため、侯景軍に戦いを挑むことができず、遠巻きに見守るだけになってしまったのです。 建康の攻防戦は、名将羊侃の善戦で膠着しますが、彼が戦傷が元で病死すると、梁軍の士気は衰え、脱走する者が相次ぎました。 さらに侯景が奴隷解放令を出して、建康にいる奴隷で、味方する者は取り立てると宣言すると、場内に内応者が出て、549年3月、建康は陥落しました。 この事態の主犯である朱异は、落城寸前に死亡(建康を包囲する侯景軍を見て精神に異常をきたし、狂死しました)ており、彼の失態のツケは、主君である武帝が背負わされることになりました(この点も彼が強く批判される理由です)。 武力で梁の実権を握った侯景は、相国(現在の首相に当たる大臣職)と宇宙大将軍(売れない芸人の寒いジョークにしか思えませんが、侯景は本当にそう称したのです)を自称して、意気揚々と武帝と対面しました。 この時武帝は病み衰えてベッドで寝たきりとなっており、病床で侯景と対面しています。 「その者は誰か?」 「候相国でございます」 近侍が答えると、武帝は激怒しました。 「愚か者! 臣下を重職に任命するのは天子(皇帝)たる朕である。朕はその者を相国に任じた覚えはないわ!」 対面前、「天子といっても死にかけの爺。しのごの言ったら首をひねってやる」と豪語していた侯景は、武帝の発する気迫に震え上がって跪き、武帝から声をかけられるまで顔を上げられなかったと言われています。 それを見た者は、これが皇帝の威厳かと格の違いを思い知らされたと言います。もちろん侯景もでした。 「天子は生かしておけぬ」 彼は陰湿極まりない報復を行います。武帝の食事の量を少しずつ減らし、最終的には何も与えなくしたのです。2か月後、武帝は骨と皮だけになって餓死しました(彼の最後は、「蜜が食べたい」だったと伝えられています)。 享年86歳。一代の英雄に悲惨な最後でした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[西暦535年の大噴火] カテゴリの最新記事
|