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2018.11.08
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カテゴリ:西暦535年の大噴火

武帝が無残な死を迎えたころ、侯景の理性の箍は外れていきます。
もともと彼に政治的な理念や目的はありません。自分が生き延びるために挙兵しただけですから、頂点を極めてしまうと、後はお決まりのパターンで暴君化していくだけになったのです。
侯景は、東ローマ帝国をずたずたにしたフォカスと、同じ種類の人間でした。

​​武帝の死後、侯景はとらえていた皇太子の蕭綱(武帝の三男)を、皇帝として即位させました(梁朝第二代皇帝簡文帝。位549~551年)。​​
​​​もちろん政治の実権は簡文帝にはなく、まったくの侯景の傀儡であり、いずれ禅譲(皇帝位を譲らせること)させた後は、殺されるだけの存在でした(簡文帝もそのことを理解しており、「朕はよりによって、宇宙大将軍などと称する者に殺されるのか」と嘆いたと言われています。言葉通り、2年後に侯景によって弑逆されます)
また利用価値のなくなった反乱の旗頭、臨賀王蕭正徳も侯景によって謀殺されています(蕭正徳は建康が陥落して後、ようやく自分が利用されるだけ利用されて殺されることに気がつき、死の直前の武帝に泣いて助けを求めましたが、「今更泣いてなんになる。そなたも朕も、あやつ(侯景)に殺されるのを待つだけだ」と突き離されたと言われています)。​​​
こうして反乱の後始末と、自らの権力基盤強化にいそしんだ侯景は、門閥貴族層を今後も味方に引き止め続けるために、建康攻略前に発表した奴隷解放令を撤回しました。
しかしこれは大失敗でした。
建康攻略時に、奴隷たちによって邸宅を破壊され、財産を損なった貴族たちは、かつての朱异以上に侯景を憎んでおり、今更彼を支持することはありませんでした。
貴族たちは朱异を憎み、排除したいと思って侯景の反乱を後押ししましたが、国そのものを破壊する意図はありませんでした。彼はやりすぎたのです。
また利用するだけ利用して、再び奴隷身分に戻された貧民層の反発は凄まじく、のちに侯景の命脈が立たれる原因の一つになります。
さらに侯景が民衆の支持を失い、反感を買う原因になったのは、侯景に付き従って長江を渡ってきた兵たちでした。
​彼らはもともと粗暴なものが多く、華南を追われて梁に逃れてきた反動もあってか、勝利者として驕り高ぶり、村々を襲い、民家に押し入っては好き放題に略奪暴行や殺人をほしいままにしていました。侯景はそれを処罰せず放置したため(苦労をかけた部下たちへの報酬と考えていたようです)、一層支持を失っていきました。​
侯景は梁の実権を握っていると胡座をかいていましたが、彼の実効支配は、建康とその周辺だけでした。地方には梁の皇族たちが健在で、北の東魏、西魏も虎視眈々と梁を窺い、いずれ衝突は避けられない情勢でした。
このどうにもならない状況が、さらに侯景を追いつめていきました。
​​​551年、江陵(現在の中国湖北省荊州市)の湘東王蕭繹(​武帝の七男。梁朝第四代皇帝元帝)討伐に失敗した侯景は、その理由を思い通りにならない簡文帝のせいと逆恨みして、禅譲させる前に弑逆して(簡文帝だけでなく、その子供たちもすべて殺害しました)​、予章王簫棟(武帝の長男昭明太子の孫。年齢は不詳ですが、まだ未成年だったと考えられています。梁朝の第三代皇帝ですが、彼は梁の朝廷から正式な皇帝と認められていないため、諡はありません)を即位させました。
そして早々に禅譲させて、侯景は皇帝を称し、国号を「漢」としました。​​​
しかし政治的に孤立し、民衆からの支持もない侯景に、いまさら皇帝の地位も称号もなんの意味もないものでした。
そしてこの頃、梁軍は湘東王蕭繹の元で、ようやく反撃体制を整えつつありました。
​梁軍の反撃が2年以上も遅れたのは、軍が各地に分散していてなかなか集結できなかったこと、何人かの皇位継承候補者がいて、誰が旗頭になるかでもめて、侯景と戦うどころではなかったからです(その他の理由については、次回解説したいと思います)。​
ようやく、有力武将の王僧弁と陳霸先の支持を取り付けた湘東王が、侯景打倒に踏み切ったのです。

​551年11月、「漢」の皇帝となった侯景は、それで満足したのか、それとも徐々に追いつめられていく状況に自暴自棄になったのか、宮中に籠もって酒浸りの日々を送り、湘東王が派遣した王僧弁と陳霸先の討伐軍が建康に迫っても、なんの対処もしようとしていません(クーデターを恐れて、宮殿を出られなかったのではという説を唱える歴史家もいます)。​
指揮官のいない侯景軍は大敗して四散し、貧民たちは進んで建康の城門を開けました。
​梁兵が宮殿になだれ込んでくると、侯景は大あわてで逃げ出し、船で南に逃亡を図りましたが、部下に裏切られて建康に連れ戻され、羊鵾​(建康の戦いで死んだ梁将羊侃の三男。彼は逃走した侯景の部下に紛れて後を追い、部下たちを説得して裏切らせて、建康に船を戻させました)によって首を切られました(彼の最後の言葉は、「わしは天子(皇帝)だ。陛下と呼べ」だったと言われています。震え上がって命乞いも出来なかった東ローマ帝国のフォカスとは異なり、侯景は度胸があったようです)​。​

ここで余談の余談です。
歴史的に見て、破壊と殺戮をもたらしたのみで退場した侯景ですが、実は知名度の高い言葉を残しています。
「兵は拙速を貴ぶ」と言う言葉があります。意味は、戦いは相手よりも素早く、迅速果敢な行動で勝利することが大事となるでしょうか。
​この言葉、たいていの人は、有名な軍事思想家孫子(孫武。紀元前の春秋時代の人。彼の著作はビジネスなどにも応用できると、大きな本屋さんでも見つけることが出来ます)のものと、勘違いされるのですが、実は侯景の言葉です。​
​オリジナルの孫子の言葉は、「兵は拙速を聞く、未だ功の久しきを覩ざるなり(戦争はだらだ続けてよい結果になったことはない。少々まずい状況であっても、すばやく行動して戦争を終わらせることが大切)で、意味は大きく異なります。​
侯景の言葉は、目先の戦いでいかに勝利するかに集中した言葉なのに対して、孫武の言葉には、戦争が長期化すれば、国民生活が破綻して、国家経済が崩壊してしまう。だから一端戦争になってしまったからには、多少不味い状況でも素早く、少しでも自国に有利な形で終結に持ち込むべきであるという、深い意味のあるのです。
この一見すると、同じな意味に感じる言葉に込められた思想の差が、孫武が2500年以上も残る思想を現代まで残したのに対して、侯景が何も残らなかった、残せなかった理由といえるでしょう。
侯景は、目先の動きに対して、素早く行動することには長けていますが、そこから先の思考や計画、創造性といった事は何も出来ない人だったのです。
さてこうして侯景は退場しました。次は、梁のその後と南朝について書いてみたいと思います。





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Last updated  2019.12.22 00:22:54
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