|
カテゴリ:西暦535年の大噴火
侯景の乱は終わりました。同時にそれは、梁王朝の終焉の始まりでした。 建康に一番乗りをしたのは梁将王僧弁の軍でしたが、彼は配下の兵が略奪するのを止めようとせず(兵士の報償のひとつと黙認したようです。この辺の考え方は侯景に似ていたようです、この結果は、のちに彼が民衆の支持を得られず、陳霸先に破れて敗死する遠因になります)、官軍であるはずの梁軍によって、建康は破壊され、住民の多くが害されました。 湘東王蕭繹(武帝の七男)は、侯景討伐のどさくさに紛れて、彼が擁立した予章王簫棟(武帝の長男昭明太子の孫。湘東王からみて甥に当たります)を謀殺し(予章王とその弟妹たちを、檻に入れて船で江陵へ護送中、船ごと長江に沈めて溺死させました)、皇帝に即位しましたが(梁の元帝。位552~555年)、王僧弁の乱行の影響で建康に留まることが出来ず、江陵を都とせざるを得ませんでした。 しかし蜀(現在の中国四川省)の武陵王簫紀(武帝の八男)は、兄の即位を認めず自らを皇帝と称しました。 北朝の西魏は、襄陽(中国湖北省襄陽市)の岳陽郡王蕭詧(昭明太子の三男。彼の領土は、西魏とその後継北朝北周の傀儡王朝として歴史学的には「後梁」と呼ばれます。かなり後の時代になりますが、隋の煬帝(位604~618年)の正妻簫皇后は、この後梁皇族の子孫になります)を梁の正当な皇帝として支援し、もう一つの北朝、北斉(東魏に取って代わった北朝王朝のひとつ) も、彭城の戦いで捕虜にした貞陽侯蕭淵明(梁の武帝の甥)を梁の皇帝と認めるよう圧力をかけたため、梁は3つ、4つに分離列状態に陥りました。 なぜこんな事になったのかというと、儒教的な価値観(例えば、「子は親に従い、弟は兄に従う」等)から考えないといけません(なので現代の日本人にはややこしく感じる話だと思います)。 侯景の乱によって武帝が死に、皇太子の簡文帝(武帝の三男)が即位しました。 表向き、侯景は相国(首相)を称しており、簡文帝の臣下というスタンスをとっていました。もちろん、皇帝に実権はなく、傀儡であったとしても、臣下という立場を維持している以上、元帝や武陵王が侯景打倒に動けば、兄に背く反儒教的な行為になってしまうため、下手に動けなくなってしまったのです。 そのため簡文帝が生きている間は、侯景に従わない姿勢を示して、反抗するぐらいしか出来なかったのです。 その意味では、侯景がこれら諸王を倒す前に簡文帝のみならず、その子供たちもすべて殺してしまったのは、致命的な誤りだったのです。 その後、簡文帝を殺害した侯景を元帝が打倒し、大功のあった彼が即位するのは問題ないように見えますが、彼は皇族ではありますが、皇太子ではありません。 儒教倫理的には、本当は簡文帝の子孫が次ぐべきですが、そちらは侯景がすべて殺してしまったので、侯景が即位させた予章王簫棟の系統が、そのまま帝位を継ぐべきと言う理屈になるのです。 元帝が帝位につくなら、予章王に禅譲させるという手続きをすれば良かったのですが、短気で激情家の彼は、予章王の即位自体を無かったことにして、強引に即位したため(あまつさえ殺害する暴挙に出ています)、皇族なら誰でも皇帝になれるという、帝位の下克上の論理を、自ら作ってしまったのです。 そのため弟の武陵王や、その他の皇族の皇帝僭称に一定の正当性を与える結果になってしまいました。 さらに元帝は猜疑心の強い性格だったこともあり、誠心誠意を尽くして他の皇族たちを説得するような事が出来なかったので、自分の皇帝としての地位と権威を守るために、他の皇族をすべて殺さなければならない羽目に陥りました。 武陵王簫紀は、553年に元帝に破れて敗死し、元帝も555年に、西魏の大軍の来援を受けた岳陽郡王蕭詧に江陵を攻め落とされ、処刑されました(元帝の最後は、宮殿に火を放ちその中で命を絶った説と、甥の蕭詧に捕らえられ、腹の上に土嚢を積み上げられて圧死させられた説の二つあります)。 兄が弟を殺し、甥が叔父を殺す凄惨な骨肉の争いでした。 元帝の死後、建康にいた王僧弁と陳霸先は、元帝の九男蕭方智(梁朝最後の皇帝敬帝。位555~557年)を即位させて梁朝の瓦解を防ぐと、江南への西魏、北斉の侵攻を阻止しましたが、北朝が兵を引くと、両者は権力をめぐって仲間割れし、王僧弁が敗死して陳霸先(陳の武帝。位557~559年)が勝利すると、敬帝は禅譲を強いられ、557年梁は滅亡しました(用無しになった敬帝は翌年殺害され、16年の生涯を閉じました)。 それは侯景の乱が起きてから、たった8年の出来事でした。 梁の武帝は晩年、息子たちをわがままに育ててしまったことを心配して、「(自分が死んだ後)仲良くやっていけるだろうか」「皇太子(ここでいう皇太子は長男の簫統(昭明太子)のこと。簫統は我の強い弟たちからも慕われる性格でした)が生きていたら」と嘆いていたと言われています(その辺の悩みも、彼の浮世離れの原因の一つでした)。 結局父帝の懸念通り、侯景の乱をきっかけに武帝の息子たちは仲たがいして自滅し、梁という国家の滅亡への道を開いてしまったのです。 こうして南朝最後の王朝となる陳(557~589年)が誕生しましたが、南朝の凋落はもはや歯止めがかかりませんでした。 長江以北は北斉に奪われ、四川と江陵は北周(556~581年。西魏を簒奪してできた王朝)に奪われたため、梁の1/3ぐらいまで領域は縮小していました。 さらに王僧弁の残党や、梁朝末期に地方に派遣された軍が、各地で軍閥化して陳朝に反抗したため、陳の武帝は王朝の基礎を作れぬまま世を去りました。 陳朝は、第二代皇帝文帝(陳蒨。位559~566年)から第四代皇帝宣帝(陳頊。位568~582年)の時期は安定したものの(これは北朝の二国が激しく争って、南に目を向ける余裕がなかったためです)、侯景の乱で破壊された南朝の国力は、最後まで回復することはありませんでした。 そして宣帝の死後、暗愚な皇帝の典型と言われる後主(最後の皇帝という意味です)陳叔宝(位582~589年)の時、華北を統一して中国統一に乗り出した隋の文帝(楊堅。位581~604年)によって陳は滅ぼされ、中国は数百年ぶりに統一国家になることになります。 次は北朝側の事情を見てみたいと思います。
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[西暦535年の大噴火] カテゴリの最新記事
|