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カテゴリ:西暦535年の大噴火
分裂した中国を統一する母体となったのは、北朝北魏(386~535年)です。 北魏を建国したのは漢族ではなく、中国北方を脅かしていた遊牧民族鮮卑でした。彼らは西晋が崩壊して華北が戦乱状態になったのに乗じて、中原に進出しました。 小国が乱立していた華北を、北魏が統一したのは太武帝(拓跋燾。位423~452年)で、西暦439年の事です。これ以降、150年に及ぶ南北朝時代が始まります。 人口が多く、開発の進んだ華北を手に入れた北魏は、南朝との戦争を常に優勢に展開しました。 さて、北魏を建国した鮮卑族ですが、華北で生活しているうちにすっかり漢文化になじみ、遊牧民としての性格は失われていきました。孝文帝(元宏。位471~499年)の時代には、鮮卑風の姓を漢風に改める政策が実行され、帝室の姓は「拓跋」から「元」に改められました。 しかし孝文帝の漢化政策は、僅かながらに残っていた鮮卑の文化を否定するものでしたから、保守層から大反発を受け、六鎮の乱(523~530年)が起きました。 反乱は転圧されたものの、北魏皇帝の威信は地に落ち、実権は重臣の高歓と宇文泰に奪われました。 そんな中、丞相高歓と対立した皇帝孝武帝(元脩。位510~534年)は、首都洛陽を脱出して、宇文泰のいる長安に逃れると、高歓は孝武帝を廃位し(そのため東魏では、孝武帝は出帝と諡されています)、孝静帝(元善見。534~550年)を擁立して、北魏は東西に分裂しました(どちらも国号は「魏」のままです。なお長安に逃亡した孝武帝ですが、すぐに宇文泰と対立して毒殺され、文帝(元宝炬。535~551年)が皇帝にたてられました)。 その混乱の中、西暦535年の大災害が始まりました。 北朝側の記録をまとめた歴史書『北史』には、以下のような記述が出てきます。 「干ばつのため勅令が下された。「都(長安)とすべての州、以下各地域に至るまで、死体は埋葬すべし」という内容だった(535年5月)」 「大変な飢饉。(長安の)市門や門(宮殿や各省の門の事)で、水を配るよう命令が出た(535年7月)」 クラカタウ噴火は、535年2月と推測されますから、それから数か月で、華北が深刻な飢餓状態に陥っていたことが伺えます。 そして冬になると、大寒波が飢えた人々に襲い掛かりました。 西魏の朝廷は、被害の実態調査のため雍州や岐州、泰州(いずれも現在の中国陝西省)に官吏を派遣しましたが、もたらされた報告に震撼することになります。 「本来ならどこを見ても水路ばかりの地(陝西省)でも大変な飢饉。人々は人肉を食らい、人口の7、8割が死亡した(535年12月)」 南朝梁では、549、550年に人肉食いの記述が出てきますが、北朝では535年から始まっていました。 飢饉は華北でも一年では終わりませんでした。538年には大干ばつから一転して大雨が続き、黄河が大氾濫を引き起こしています(『北史』には、「樹上で蛙が鳴いていた」とあります)。 西魏、東魏とも、官倉を開いて、飢えた人々に食料と織物を配りましたがとても足りず、大勢の餓死者と凍死者を出しました。そうなると、前に触れたイスラム帝国やアヴァールと同じパターンを踏襲することになります。 537年、東魏、西魏の戦争が再開されました。当時の中原地域は馬や牛の放牧も盛んであり、戦争に必要な数の確保は容易でした(人が餓死しても、戦で使う馬は殺させなかったこともあります)。 東魏は長安攻略を目指して、関中地方(現在の中国陝西省)に侵攻しましたが、沙苑の戦いで敗れて撤退し、次いで西魏も鄴(東魏の都)を狙って攻勢に転じたものの、東魏の武将侯景に敗れ、逆の荊州と河南地方を奪われて、一進一退の状況に陥っています。 そして東魏の丞相高歓が死に、待遇への不満から侯景が梁に寝返り、侯景の乱が発生することになります(前回までのブログをみてね♪)。 侯景の乱は、西魏、東魏にとって奇貨でした。 実のところ530年代、北朝は東西に分裂していたため、南朝の梁の方が国力が上になっていました。梁に介入されないよう、双方とも梁の動向には気を使っていたのです。 しかし侯景によって、梁の国家機構が破綻したことは、南への領土拡大のチャンスとなったのです。 余談ですが、東魏の丞相高澄は、戦いに敗れた妻子を捨てて逃走する侯景を見て、「討ち果たすに及ばず」と見逃しています。一方で捕らえた侯景の妻子は、すぐに処刑する挙に出ています。 これは高澄が残忍だったというより、自分への憎悪を煽ることで、侯景を追い詰めて、梁で反乱を起こさせようとしたのだと思われます(裸一貫となり、梁からも見捨てられた彼が、高澄に復讐するには、国を力づくで奪うしかありません。事実、妻子が処刑されたことを知った侯景は怒り狂い、梁の実権を握ると、すぐに東魏と戦争をしようと躍起になり、反対する梁の重臣・廷臣たちを殺害・追放して、梁の国力をさらに衰退させてしまいます)。 本来、交渉の材料になりうる人質をすぐに処刑し、しかも相手にすぐに伝わるようにするなど、一見すると迂闊な失敗をしているように見えますが、それらは高澄が仕掛けた謀略だったと考えると、上手く説明できるようです。 結局のところ、侯景も朱异も、最後まで仲良く、高澄の手のひらの上で踊っていたのでしょう。 恐るべき策略家の高澄ですが、彼の命は侯景より早くに尽きます。549年8月、酒宴後、梁の降臣蘭京に刺殺されて、28年の生涯を閉じたのです。 高澄は非情なことも平然とできましたが、普段は頭脳明晰で慈悲深い、名君としての資質を兼ね備えた人物でした。しかし彼の最悪の短所は、ひどい酒乱だったことです(彼だけでなく、高歓の息子たちに共通する悪癖でした。高歓は常々高澄に、「酒を飲むなとは言わぬが酒量は控えよ。いずれ身を滅ぼすことになるぞ」と諫めていましたが、その懸念通りになりました)。 酒が入ると高澄はたちどころに暴君に変貌し、孝静帝(傀儡であっても主君は主君です)であろうが、気に障れば棒で打ち据え、罵声を浴びせるような性質だったのです。そういったことの積み重ねで恨みを買い、暗殺されてしまったのです。 高澄の死後、弟の高洋(北斉の文宣帝。彼もしらふの時は名君でしたが、やはり酒乱で、酔って生母を殴って罵倒したり、家臣やその妻を殺したりと、酒にまつわる失敗の多い人物でした)が斉王の跡を継ぎ、550年に孝静帝に禅譲させて、北斉を建国することになります(孝静帝は2年後に毒殺されました)。 話を戻します。 梁の弱体化をみた西魏(556年からは「北周」)、東魏(550年からは「北斉」)は、梁に侵攻して領土を奪っていきます。 おりしも549、550年は再び大飢饉が発生していて、華北でも人肉を食べる事態に陥っていましたから、両国とも食糧収奪に必死になったのです。 西魏は549年に漢中を占領し、553年までに四川全土を制圧し、襄陽の岳陽郡王蕭詧を傀儡南朝として、その後の南朝侵攻の足掛かりを作りました。対する北斉も、長江以北を占領しています。 策を弄した割に、北斉の取り分が少ないのは、長江南岸の建康に侯景がおり、直接対決を避けたのと(元は東魏の武将ですから、北斉の諸将は侯景の戦ぶりをよく知っていました)、この頃北斉は、南ではなく北の柔然に目を向けて(ずっと昔にブログで書きましたねぇ・汗)、そちらへの領土拡大に集中していたためでした。 こうして北朝2国は、南朝から領土と食料を奪いって、飢饉から一息つくことができました。そして、中国統一への最終段階に進むことになります。
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