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2018.12.30
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カテゴリ:西暦535年の大噴火

それでは、南北朝時代の終焉、中国統一の流れに触れたいと思います。

​​南朝が梁から陳に代わり、国力が大きく衰退して、南の国境の心配がなくなった北朝の北周(556~581年)と北斉(550~577年)は、中原の覇権をめぐって、戦争へと突き進みました。​​
しかしそれは、三国にとって滅亡の道でした。経緯を北斉から見ていきたいと思います。

​​初代文宣帝(高洋。位550~559年)のもとで領土を拡大し、順調に富国強兵を進めた北斉ですが、すぐに高氏の持病、酒乱で国政は乱れ、文宣帝は31歳の若さで急死しました(『北斉書』では、酒毒で寿命を縮めたことが仄めかされています)。​​
跡を継いだ廃帝​(高殷。文宣帝の長男。位559~560年)は精神薄弱で(酔った父帝が棒で殴りつけたのが、精神を病んだ原因といわれています)​、叔父孝昭帝(高演。高歓の六男。位560~561年)に暗殺されました。​​
​甥を殺して即位した孝昭帝は、道義的にはともかく、兄たち同様政治家としての見識が高く、混乱した国政の収拾が期待されましたが、即位翌年落馬が元で急死し、兄弟中最も無能といわれた武成帝(高堪。高歓の九男。位561~565年)が即位しました。​
​武成帝は佞臣を重用して酒色と漁色にふけり、国政は乱れましたが、北斉は斛律光と蘭陵王高長恭(高澄の四男。母は身分の低い女性のようで名は伝わっていません。ちなみに長恭は字で、諱は孝瓘といいます。しかし字の方が有名なので、高孝瓘だとほとんど通じません・苦笑)という名将が二人いたので、致命的な事態にはなっていません。​
​しかし武成帝の息子で、父以上に暗愚な後主(高緯。位565~576年)が皇帝になると、事態は一変します。​
後主は父以上に乱行をほしいままにし、さらに佞臣の讒言を信じて、斛律光は572年に、蘭陵王は573年に、それぞれ自殺を命じて粛正しました。
これにより北斉の軍の統率は崩壊し、戦力など無いに等しい南朝の陳にすら、北斉は負けるようになりました。
斛律光と蘭陵王の死を知った北周の武帝は、驚喜して北斉に侵攻し、577年に北斉は滅亡し、後主を含む北斉の皇族・重臣は、ことごとく皆殺しにされました。

次は北周です。
556年に西魏の恭帝(元廓。位554~556年)に禅譲させて建国した北周ですが、この国は北斉以上に血なまぐさい出発から始まりました。​
​北周初代孝閔帝(宇文覚。位556~557年)は、まだ16歳の少年で、実権は従兄の宇文護が握っていました。つまり西魏は宇文氏に乗っ取られましたが、宇文宗家も分家の牛耳られていたのです。​
​傀儡の境遇に反発した孝閔帝は、密かに宇文護打倒を画策しますが、事は露見し、謀議に加わった重臣たち共々誅殺されました(どさくさに紛れて、恭帝も殺されました)。​
​​宇文護は、孝閔帝の兄明帝(宇文毓。位557~560年)を即位させますが、思いのほか聡明で、君主の器量を持ち合わせていたことから、後難を恐れた宇文護により毒殺され、先帝・先々帝の弟武帝(宇文邕。位560~578年)を即位させました。​​
兄たちの悲惨な末路を見ていた武帝は、巧みに保身に努めました。優柔不断で愚鈍な男を装ったのです。
宇文護はそれを芝居と疑ったものの、武帝は10年以上にわたって暗愚な皇帝を演じたため、宇文護も次第に警戒を解いていきました。
​その間、異母弟斉王宇文憲や、隋国公楊堅(後の隋の文帝。位581~604年)ら、軍の有力者を味方に引き入れ、虎視眈々と宇文護打倒の機会を窺っていた武帝は、572年、不意をついて宇文護の実権を奪い、彼の一族郎党をことごとく処刑しました。​
親政を開始した武帝は、北斉が斛律光と蘭陵王を粛正したのを知り、北斉に侵攻してこれを滅ぼし、華北全土を支配下に置きました。
そして中国統一を目指して南朝陳への侵攻を意図し、その際の後顧の憂いを絶つため、北の突厥の力を削ごうとモンゴル高原へ親征しましたが、その途上で病をえて急死しました。
​武帝の跡を継いだのは、息子の宣帝(宇文贇。位578~580年)でしたが、彼は父とは似ても似つかぬ暗愚な人間でした。​
父帝は生前、「あれに天子は荷が重いのではないか」と、息子の資質を疑問視して厳しい教育を課しましたが、息子の身になることはありませんでした。
宣帝は厳しかった武帝を憎み、棺に向かって「もっと早く死ねば良かったのに」と罵ったと伝えられています。
即位した宣帝が真っ先にやったことは、父が信任していた重臣たちを粛正することでした。叔父の斉王宇文憲をはじめ、多くの重臣が一族ごと処刑されました。難を逃れられたのは、娘を宣帝に嫁がせて外戚になっていた隋国公楊堅ぐらいでした。
​宣帝の乱行は続き、即位翌年に7歳の息子静帝(宇文衍。位580~581年)に譲位し、自らを天元皇帝と称して、酒色と漁色にふけりました。​
北周王朝は人心を失い、人々の期待は政治を淡々とこなす隋国公楊堅へと移っていきました。
580年、乱行が祟ったのか、それとも毒を盛られたのか、宣帝は22歳の若さで崩御しました。
宣帝の死で実権を掌握した楊堅は、禅譲の邪魔になる北周の皇族や、重臣たちを巧みに挑発して反乱を起こさせると、直ちに鎮圧して敵対勢力を根絶やしにしました。
​​​そして翌581年、楊堅(以後は文帝と表記します)は静帝から禅譲させて北周は滅び、王朝(581~618年)が誕生しました(退位させられた静帝は、翌月には自殺を命じられ、8年の短い生涯を閉じました)。​​​

文帝は北周の武帝が整えた天下統一への布石を活かし、陳への圧迫を強めました。
襄陽の傀儡南朝後梁を隋に併合し、陳侵攻への前線基地とする一方、数百隻の軍船を建造し、10万頭の馬と大量の兵糧を貯蔵し、着々と侵攻準備を整えていきました。
​おりしも、陳は暗愚な後主(陳叔宝。位582~589年)の元で国力を衰退させており、隋の不穏な動きを聞いても、なんの対策も講じようとしませんでした。​
​588年3月、文帝は陳の後主に苛烈な檄文(「怠惰で皇帝たる義務を果たさない、天に背いた人間」と、後主の20以上の罪状をあげて、国を隋に譲るように要求しました)を送りつけると、両国の戦端は開かれました。​
​​晋王楊広(文帝の次男で、後の隋朝第二代皇帝煬帝)を司令官に、隋軍は51万8千もの大軍で侵攻し、陳軍の微弱な抵抗を排して(怠惰な皇帝に幻滅していた陳軍将兵は、ほとんど無抵抗で、隋軍に降伏しました)、10月に首都建康は陥落し、あっけなく陳は滅びました。​​
​隋軍は宮殿を探索しましたが後主の姿はなく(この時兵の一人が、皇帝のベッド脇から、未開封で放置されたままの、隋軍侵攻を告げる半年前の第一報を発見しています)、後刻、愛妃2人と、空井戸の底に隠れているのを見つかって捕縛されました。
こうして中国は約400年ぶりに統一国家になりました。
西暦535年の大災害が、どれだけの影響を与えたかを判断することは難しいですが、災害がなければ南朝は大きく国力を衰退させることはなく、微妙なバランスを保ちながら、今しばらく南北朝時代が続いていたかもしれません。
そして超大国隋の出現により、東アジア情勢は、この後大きく変貌していくことになります。

今度からは、日本の話に触れていきたいと思います。


明日帰省の予定なので、これが年内最後のブログ更新になりそうです。
皆様、よいお年を!





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Last updated  2018.12.31 18:02:11
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