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カテゴリ:西暦535年の大噴火
・・・最近、このブログに来てくださいる方の中で、閲覧順位が高くなっているのが、「西暦535年の大噴火」シリーズです。 先年のクラカタウ噴火の影響でしょうか。 読んでくださる方が多くなるのはうれしいですが、一方でつたないものを読んでくださってと戦々恐々です(汗)。 それでは日本の話しに入っていきたいと思います。 「西暦535年の大噴火」を書き始めて6年目になります。ようやく日本までたどり着きました(苦笑)。西暦535年の災害が起きた時、日本は安閑天皇(位531~535年)が崩御し、同母弟の宣化天皇(位535~539年)へと、皇位が移った頃でした。 と、ここで早くも脱線です。 上で「天皇」という表現を使っていますが、この時代、「天皇」という君主号は存在していません。正確に言えば、「大王(おおきみ)」と呼ぶのが正しいです。 「天皇」の君主号が使われるようになったのは、天武天皇(位673~686年)からで、701年の大宝律令によって、法的に定められました。 従って、天武天皇以前の天皇を、「○○天皇」と呼ぶのは不正確なのですが、煩雑さを避けたいので、このブログでははじめから「天皇」号を使用したいと思います。 あと、基本的に『日本書紀』をベースに書いていきますが、その正確性について批判する方もいるかもしれません。 戦前は『古事記』と併せて、皇国史観に組み入れられていたため、『古事記』『日本書記』を敬遠される方も多いですしね。 確かに『日本書紀』の記述には、信憑性に疑問がつく点が多々あります。 『日本書紀』は、朝廷が各豪族に古記録を献上させて、藤原氏が中心になって編纂したと考えられています。したがって天皇家や藤原氏に都合が悪い記述は消されたり修正された可能性や、記録の混同や誤情報の記載はあると見て良いと思います。 しかしそう言うことは、どの時代、どこの国の史料にもよくある話なので(近年近くの国を見ていて、感じていらっしゃる人も多いでしょう・苦笑)、曖昧な点、間違っている点だけを切り取って批判するのは、正しくないと思っています。 他の史料(例えば『古事記』や、中国の歴史書など)と照らし合わせて見ていけば、特に大きな問題はないと思っています。 ちなみに多くの資料を基に、全体像を浮かび上がらせるという手法は、歴史学の正攻法です。 とまぁ、脱線はこれぐらいにしたいと思います。 災害が起きる少し前、535年正月に安閑天皇が出した詔は、「このところ毎年穀物がよく稔って辺境に憂いはない。万民は生業に安んじ飢えもない」と、平和を謳歌するものでした。 しかし翌536年正月の宣化天皇の詔は、「食は天下の元である。黄金が万貫あっても飢えを癒すことは出来ない。真珠が一千箱あっても、どうして凍えるのを救えようか」と、全く逆の悲痛なものとなっています。 この違いすぎる詔は、『日本書紀』の編纂者たちが、意図的に対比となるよう並べた言葉ではないかと考えられています(特に安閑天皇の詔の方は、創作もしくは別の年の詔を、535年に据えたのではと考えている研究者が多いようです)。 しかし逆に言えば、そう言うコントラストを必要とするような、大災害が発生していたことを裏付けているとも考えられます。 事実、宣化天皇の詔は、ただ嘆くだけで終わりではなく、「籾のある地域は、無い地域に運ぶように」「非常なる時に備えて、平時から倉を建て(食糧を貯蔵し)、民の命を守らねばならない」と、具体的な指示も述べられており、536年時点で、飢饉と大寒波が日本を襲っていたのは間違いなさそうです。 飢饉対策に苦心するヤマト朝廷ですが、さらに頭を悩ませる問題が起きていました。それは朝鮮半島や中国から、大挙して日本に逃れてきた移民者(実質的に難民)対策でした。 日本の朝廷は、伝統的に彼ら大陸からの渡来人を歓迎してきました。渡来人たちが伝える技術や文物は、当時の日本にとって最先端技術であったからです。 しかし530年代後半から、日本に流れ込んできた渡来人は、それまでと桁違いの人数でした。 「近くの国から帰化してくる人々を集めると、戸数は全部で7千53戸になった」とは、『日本書紀』の540年に出てくる記述です。 ここでまたまた脱線です。戸数というと、人数がどれぐらいなのかピンと来ない方が多いと思います。 実際、家によって人数構成も多々あるので、戸数から正確な人数を割り出すことは難しいのですが、律令制下の中国では、1戸あたり成人男性が4人いると試算しています。『日本書紀』が編纂されたのは、日本でも律令制が施行されたあとなので、計算方法はほぼ同じだと思います。 当時の家は、一族で一緒の家に住むのが当たり前の時代ですから、家長とその兄弟、妻や子供たち、さらに子供たちの嫁や孫たちが一緒に住んでいるとすると、1戸はおおよそ20人ぐらいはいるイメージになります(私は他に頼れる史料がない場合は、1戸20人と目算しています)。 つまり7千53戸とは、だいたい14万1060人ぐらいということになります。 当時の日本の総人口が300万人に満たなかった事を考えると、この渡来者数は異常な数字です。 分かりやすく現在の人口比で例えると、日本の総人口を1億2千万人として、560万人の難民が押し寄せてきた感じです。ヤマト朝廷がなぜ頭を抱えたのか、頷けるのではないでしょうか。 朝廷は渡来人たちに「衣食」は十分に与えることは出来ませんでしたが、「住」については、各国各郡に渡来人たちを分けて入植させることで解決を図りました(大陸での対立関係を考慮して、百済系、新羅系、高句麗系、中国系と言う感じに、入植地の距離を離して、諍いなどが起きないよう配慮しています)。 特に暴動や争いが起きたという記録がないところから見ると、入植政策は巧くいったようです。 どうやら日本で起きた飢饉は、大陸で起きたものよりは軽かったようで、大勢の難民を抱えたにもかかわらず、中国のような人肉食いの話も出てきません。 こうして苦労しながら、渡来人を受け入れていたヤマト朝廷ですが、渡来人たちが持ち込んだ2つのものが、古代日本を揺るがすことになります。 それは疫病と仏教でした。 次は、疫病と仏教が、当時の日本にどんな影響を与えたか触れてみたいと思います。
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