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カテゴリ:西暦535年の大噴火
ずっと前に(だいたい6年前ぐらいに・多汗)、日本の仏教伝来は、538(宣化3)年と552(欽明13)年の2説があり、538年が有力という話を書きましたが、それについて簡単に触れたいと思います。 538年説は、知恩院(京都市東山区)にある『上宮聖徳法王帝説』や、元興寺(奈良市)の『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』の記述が元になっています。2つの古文書は信頼性の高い史料と評価されています。 一方の552年説は『日本書紀』にある記述を元にしています。 しかし現在ではこのくだりは、元々の『日本書紀』には書かれておらず、末法思想が流行した平安時代位に、付け加えられた可能性が高いと考えられています。 で、さらに脱線です。この仏教の末法思想という考え方についてです。 釈迦の入滅後、釈迦の説いた正しい教えが、世で正しくおこなわれて修行して悟る人がいる時代(正法の時代)がまずあり、次に教えは正しくおこなわれていてるものの、それは外見だけで、真の教えを悟る人がいなくなる時代(像法の時代)が来る。 その次は釈迦の教えが全く伝わらず、外見だけの修行もおこなわれなくなり、人の世に道理の通じない時代(末法の時代)が、釈迦入滅から500年周期で訪れると考えられていました。 そして日本に仏教が伝来した年が、釈迦入滅から丁度1千年、末法の時代が始まったという装飾のため、書き換えられたのではないかといわれています(当時、552年が釈迦没年から1千年に当たると考えられていました。しかし釈迦没年は諸説あって、実際は不明です)。 したがって、552年説の方はいまいち信憑性が低いのです。 とまぁ、脱線はこのぐらいにして本題に入ります(汗)。私のブログでは、538年説を元に話をいたしたいと思います(私自身、それが有力だと考えているからでもあります)。 538年、金銅製の仏像一体と経典1千巻を、宣化天皇に献上したのは百済(現在の韓国南西部にあった国)でした(当時の朝鮮半島は、新羅を除く二国は仏教を国教としていました)。 百済の使者は、「仏教はあらゆる神々の中で最も優れています。どんな祈願もかなえられ、欠けるものはございません」と説きました。 金で装飾され、光り輝く仏像を初めて見た宣化天皇は驚愕しました。 神道もしくは神道系の宗教を信仰されている方はご存じですが、神道には人の形をした神の像を祀りません(たいていは鏡とかを祀っていますね)。ですから初めて金色に輝く仏像を見た天皇が、どれほどの衝撃を受けたか、それは現代人の想像を超えたものだったでしょう。 宣化天皇は、仏教信仰の可否を群臣に問いました。 大臣(おおおみ)の蘇我稲目は「西の国々は皆仏教を信仰しております。どうして日本だけ信じないでおりましょうか」と賛成しましたが、大連(おおむらじ)の物部尾輿や中臣鎌子など他の群臣たちは、「大君(おおきみ)が天下に王としておいでになるのは、つねに天地社稷の百八十神を、春夏秋冬にお祀りされているからでございます。蕃神(他国の神)を拝むことになれば、国津神(日本に古くからいる神)の怒りを受けることになりましょう」と異を唱えました。 宣化天皇は判断を保留しましたが、蘇我氏が仏教を信仰することは許しました。恐らく、試験導入的な考えがあったのでしょう。 元々が渡来系の氏族であり、百済系の渡来人と親交が深かった蘇我氏は、仏像が献上される前より仏教の経典などに親しんでいました。 したがって、稲目は喜んで邸を寺として仏教を祀りました。 仏像が朝廷に波紋を引き起こしていた頃、異変が起きていました。日本各地で疫病が発生し始めたのです。 『日本書紀』には、「国中に疫病が流行り、民に若死にするものが多かった。それが長く続いて、手だてがなかった」と、記されています。 さらには、病気に症状についても、患者の多くは高熱と頭痛、腰痛などを訴え、次いで咳と下痢に苦しめられたあとに、「体が焼かれるように苦しい」と、苦しみながら死んでいったと、詳細に記録されています。 この時日本で発生した疫病は、上の『日本書紀』で出てくる記述の病理的な分析から、天然痘のパンデミック(爆発的な感染)だったと考えられています(天然痘説が有力ですが、麻疹説もあります。双方とも初期症状がよく似ているため、見分けがつきにくいのです。ちなみにこの時代以降で、天然痘の日本での大流行が確実視されているのは奈良時代のもので、それを切っ掛けに東大寺の大仏が建立されました。一方麻疹の流行と確実にわかっているのは、平安時代からです)。 さて天然痘ですが、日本や東アジア原産の疫病ではありません。どこが起源かは不明ですが、西アジアやオリエントから、シルクロードを通って、5世紀後半頃に伝播していたようです(今から3100年ほど前のエジプト国王ラムセス5世(位 前 1160頃~前 1156頃)のミイラから、天然痘の痘痕が見つかっています。その点からも、天然痘の起源は、東アジアではなく、オリエントの方から東アジアへ広まっていったと、考えられています)。 それが中国南北朝の戦乱を通じて、南朝斉に広まり(495年の記録が東アジアでの初めての記述です)、南朝と関わりの深い朝鮮半島南部の百済・新羅に広まったのが、その10年後ぐらい、そして渡来人の急増に伴い、530年代にとうとう日本に上陸を遂げたと考えられています。 もちろん、日本人にとって初めての疫病ですから、天然痘に免疫を持つ者はいません。燎原に火を放つように、天然痘は日本で広まっていきました。 そんな中、宣化天皇が崩御し、欽明天皇(位539~571年。宣化天皇の異母弟)が即位しました。 欽明天皇の時代は、仏教推進派(崇仏派)と反対派(廃仏派)の二極構造化が進んだ時代でした。 大連大伴金村が540年頃に失脚し(百済から収賄を受けていたこと、新羅の任那侵攻に対して有効な手を打てなかったことを責められ、引退に追い込まれました)、大連は物部尾輿一人となり、崇仏派の大臣蘇我稲目と、一対一の対立図式になってしまったことが原因でした。 廃仏派の物部尾輿は、世に疫病が広まったのは、仏教を拝んだためであると廃仏を主張しました。疫病は悪神(仏教のこと)と共に、国外からやってきたと断言したのです。 この物部氏の主張は、高校までの歴史の授業では、「排他的な意見」として冷淡に扱われることが多いものです。しかし天然痘が大陸から日本にやってきた経緯を理解した上で眺めてみると、とても評価に困ることになります。 なぜなら疫病が仏教とともに、日本にやってきたのは紛れもない「事実」だからです(もちろん、仏教が悪神という意味ではありません)。 一方の蘇我稲目は、悪病を退散させるには、仏法に縋るしかないと反論し、双方の板挟みになった欽明天皇は舵取りに苦心しています。 欽明天皇は、蘇我氏の後援(欽明帝の后は蘇我稲目の娘でした)があって即位できましたから、心情的には蘇我氏の方に肩入れしたかったかもしれませんが、彼は有力豪族のバランスを崩すことを望んでおらず、物部氏にも配慮を重ねました。 しかし結果論から言えば、破局のタイミングを先送りにしただけでした。両者の対立は収まらず、対立は次第に抜き差しならぬものとなっていったからです。 次回は、崇仏派と廃仏派の破局の結末、丁未の乱を見てみたいと思います。
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