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カテゴリ:西暦535年の大噴火
高校までの歴史の授業では、詳しく触れられることはなく、年号を覚えさせられるだけで、そのまま通り過ぎてしまった方も多いかもしれません。私は歴史をやっていましたが、年号を覚えることは大嫌いでまじめにやりませんでした(遠い目)。 それはさておき、実は仏教伝来は、ただ単に仏教が日本に伝わったというだけでなく、現在に至る日本の基礎を固める重要な出来事でした。その点を少し掘り下げてみたいと思います。 天皇家に限らず、王権の始まりは、シャーマニズム(神や霊魂と直接交流し、神託、予言、病気治療等を行う宗教的職能者)と、密接なかかわりがあります。 歴史的にみて史上初めての「王」の誕生は、古代シュメール文明(紀元前3500年頃、今のイラク、チグリス・ユーフラテス川沿いで誕生した世界最古の文明)においてで、神事を司る神官が世俗的な権力を握り、王族へと変化していきました。 古代エジプトや中国、日本などの王族も、程度の差はあれ、「神の子孫」「神より王の資格を授けられた存在」として権威付けがされていきました。日本の天皇家の場合、天照大神をはじめとする、八百万の神々の恩寵を受けた存在ということになります。 ちなみに北の某国は、先代将軍様が聖地白頭山で生まれたということで、「白頭血統」を称していますが(中国と北朝鮮の国境にある白頭山(2744mの成層火山)は、高麗王朝(918~1392年以降、この山を朝鮮民族発祥の地と位置付けました)、これも「神の子孫」という神格化の一環です。聖地で生まれた将軍様は、神そのものであると権威付けしているわけです。 ついでに言うと、先代将軍様が生まれたのは、ソ連(ロシア)のハバロフスクというのが有力で、白頭山とは縁もゆかりもありません。 さらに言うなら、共産主義思想は、神や宗教、血統による政治を否定しています。にも関わらず、神の血統による世襲を公然とうたい、でも共産主義の旗を掲げている。その奇妙さ、奇怪さは非常に驚きを禁じ得ないものです。 これを興味深いとみるか、いかがわしいとみるかは、人によって異なるでしょうね。 と、危ない国をネタにした脱線はこれ位にしておきたいと思います。 仏教は外来宗教で、日本の天皇家とは関わりありません。シャーマニズム的な観点から言うと、これを受け入れることは、今までの神(とその「血統」である天皇家)は正しくないと、天皇家の権威や、君主としての正当性を否定してしまうことに繋がりかねない危険がありました。 さらにそれは、天皇家を支えてきた豪族たちの権威も、潜在的に否定するものでした。 大陸から渡ってきた蘇我氏などの渡来系新興氏族が、すんなりと仏教を受け入れられたのに対して、古くから天皇家とともに日本にいた物部氏や大伴氏、中臣氏などの豪族が、仏教を強く拒絶したのは、そういう事情があったのです。 しかし、疫病と飢饉という国難に、従来の日本の神々、人々の動揺を鎮めることができませんでした。一方光り輝く仏像みた人々は、その姿に驚き、心を鎮めることができました。その意味では、「仏法に救い」があったのです。 丁未の乱の結果、仏教の採用が決まりましたが、取り扱いに慎重を期する劇薬であることは変わりありません。なぜなら仏教を受け入れて、天皇家の権威が否定されることになれば、易姓革命(王朝交代)もあり得ない話ではなかったからです。 この難題を見事に軟着陸させたのは、用明天皇の子厩戸皇子(聖徳太子。これ以降は「聖徳太子」と表記します)でした。 聖徳太子は母と妻が蘇我氏出身(母の穴穂部間人皇女は蘇我稲目の娘、妻刀自古郎女は蘇我馬子の娘)という出自から、血統的には蘇我氏の血が濃い人物でした。 そのため仏法には早くから親しんでいたようで、当時の日本では異例なほど、国際感覚に通じた人物でした。 推古天皇(位593~628年)の即位後、太子は摂政(この時期はまだ摂政の地位はなく、ただの立太子(皇太子)だったとする説もあります)となると、大臣蘇我馬子とともに、仏教の普及のみならず、大陸からの技術や制度を、積極的かつ適切に日本に導入していきました。 太子の業績(推古天皇と蘇我馬子の業績でもあります)として、冠位十二階(603年制定、605年施行。朝廷に仕える臣下を12の等級に分けて、地位を表す冠を授けました。貴賤に縛られない人材登用を可能にするものでした)や、十七条憲法(604年)が有名ですが、これらは古代日本の構造改革でした。 従来の日本の朝廷人事は、豪族間のパワーバランスを背景にした利害の調整機関としての色彩が濃いものでしたが、中国の法や制度を取り入れて、血統ではなく能力重視の官僚制を採用したのです。 これにより、たとえ有力豪族と言えども、血統だけで朝廷の重要地位につくことは出来なくなっていき、次第に力を失っていきました(藤原氏を除く豪族が完全に力を失うのは、平安時代になってから、臣籍降下(天皇家の血筋で、皇族の身分を離れて臣下になったもの。源氏姓や平氏姓を賜りました)により新たに誕生した新興貴族層が成立することによってですので、まだ時間は必要でした)。朝廷は、豪族たちの利害に左右されない、左右されにくい政治機構に変化していくことになります。 同時にそれは、天皇家に取って代わることが出来る有力豪族たちの力を削ぎ、統制して廷臣化していく事でもありました。 平安時代に摂関政治を行い、政治権力を掌握した藤原氏にしたところで、天皇家との綿々とした婚姻関係によって、地位と権勢を守るのが精一杯で、簒奪など出来る力を持ちませんでした。 事実、天皇家が、譲位した天皇(上皇や法皇)が院政を敷く平安時代後半になると、藤原氏も次第に弱体化して、武士の台頭と反比例するように、廷臣化していきます。 そして憲法や律令の制定は、天皇の君主としての正当性を、シャーマニズム的な権威から脱却し、法と制度によって、君主の地位を保証する法治国家へと進化していく契機になるものでした(それが完全に確立されたのは、「天皇」という君主号を法的に定めた701年の大宝律令によってです)。 つまり仏教だけでなく、官僚制と法制度を同時に導入することで、仏教はただの学問のひとつとなり、天皇家を脅かしかねないイデオロギーから切り離されたのです。 仏教が天皇家にとって脅威でなくなった象徴は、聖武天皇(位724~749年)による大仏建立(752年に完成)でしょう。 聖徳太子の時代から約100年、仏教は国家鎮護思想と認識、定着しており、むしろ天皇家の権威を守る「道具」になっていたのです。 さらに平安時代になると、仏教は日本古来の神々と融合します(神仏習合)。 日本の神々と仏教、どちらがどちらを乗っ取ったかは論者によって見解が異なりそうですが、少なくとも日本の仏教は、大陸の仏教とは少し異なる和式仏教化(私の作った造語ですのでご注意を)していくことになります(例えば、恨みを持って死んだ人間が怨霊となり、それを供養して鎮めるといった発想は、神道の思想がかなり色濃く出た考え方で、日本仏教独特のものです)。 そして空海や最澄などの、密教の広まりによって大衆宗教となり、広く浸透していくことになります。 またもう一点、聖徳太子が仏教を積極的に導入しようとした理由は、当時の東アジア情勢を鑑みてとも考えられます。 かつて蘇我稲目が言っていたように、大陸では仏教は広く信仰されていました。日本が大陸諸国と交流していく上で、仏教は必要と、太子は見ていたのでしょう。 当時の日本では、すでに漢字も使われていましたから、仏教と合わせて、東アジア社会の「共通言語」と「共通価値観」というわけです。前にイスラム教のところで、似たような話に触れましたね。 事実、聖徳太子は遣隋使を派遣して、隋との国交樹立に舵を取ります。それは聖徳太子の死後も引き継がれ、遣唐使(太子が亡くなったすぐ後、中国は隋が滅び、唐になっていました)を送って、大陸と交流に努めていくことになります。 535年の災害、疫病と仏教の伝来による混乱は、古代日本の構造改革への契機になりました。そしてそれは、現代に続く、日本の大きな枠組みへとなっていくことになります。
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