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カテゴリ:西暦535年の大噴火
・・・最近、このシリーズ書いている時、イスラム国の問題や、移民法成立など、タイミング的に触れにくい時にぶつかる時が多々あるような気がします。今回もどうかと思いますが、まぁ、気のせいでしょう(乾いた笑い)。 6世紀の朝鮮半島情勢について、簡単に触れてみたいと思います。 初めにお断りしますと、私は嫌韓でも親韓でもないつもりです。自分では中立だと考えています。 個人的に在日の方で仲の良い知人もいますし(数年前日本に帰化したので、「元」が付きます。帰化した理由は、「付き合いきれない、母国といっても一度も行ったことないし、言葉もしゃべれない。日本人になって縁を切りたい」と、苦々しい口調でぼやいていました)、韓国料理も普通に好きなんですが(昨年、マッコリを初めて飲んで、なかなか美味しいなぁと思いました)、あちらの政府やメディアの主張には、閉口することが多いです。 ・・・まぁ、読み返すと、嫌韓ぽい論調が多いですが、それは中立の目から見ても問題が多いということでして(苦笑)。 当時の朝鮮半島の記録ですが、中国史や日本史に比べて、非常に史料が少ないうえに、客観性を欠く史料が多く、あまり詳しい話は出来そうもありません。 そして最も大きな問題は、韓国歴史学会が(北の方は言うに及ばずです)、実証より民族史観を優先させる傾向がある点です。 例えば、『日本書紀』における朝鮮半島関連の記述を、「創作が多い」と否定的に評価しているのにもかかわらず、同書に出てくる新羅討伐などの記述だけを取り上げて、「昔から日本は侵略国家だった」と批判する等、都合の良い部分だけを引用して、論者の結論ありきで、学説を展開させる傾向があります。 私の大学時代の恩師(中国現代史が専門で、いわゆる左側傾向の人でした)は、韓国の歴史研究者について批判的で、「あの国(韓国)の史学論文は全部小説だよ」とバッサリぶった切っていたことがあります。 話を元に戻します。 6世紀の朝鮮半島は、北は高句麗(現在の北朝鮮と、韓国北部(京畿道と江原道の北部)、中国の遼寧省と吉林省の大半を領域としていました)、南に百済(現在の韓国西部)、新羅(現在の韓国東部)の三国があり、さらに韓国南部に任那(「加羅」とも言います)と呼ばれる地域がありました。 この任那、韓国の歴史学会では腫物扱いの「取り扱い注意」地域です。 というのも、任那はヤマト政権の影響下にあったからです。正確な言い方をすれば、当時の日本領の一部だったのです。 韓国の歴史学会は、日本の「侵略」に関する記述は盛んで、しかも年々誇張が大きくなっていますが、任那に関して扱いが微妙なのは、古代、半島の一部に日本領があったことを認めてしまうと、民族史観や領土問題への主張に、齟齬をきたしてしまうからです。 最近の韓国では、対馬も韓国の領土という主張も出ています(これは対馬が、室町時代辺りから貿易の一環として、朝鮮にも朝貢(貢物を献上すること)を行っていた事を根拠にしているようです)。 しかし、任那の存在を認めてしまうと、「古代朝鮮半島南部は日本の領土だった」→「韓国の南半分は日本のもの」とブーメランになる可能性があるからです。 そのため、古代朝鮮諸国が日本に貢物を送っていた史実(そのことは、日本の史書だけでなく、中国の史書にもきちんと明記されています)すら、現在否定するようになっています。 というわけで、韓国の教科書では、任那の存在は無視されるか、逆に「任那を通じて日本を支配していた」という民族史観が前面に出た記述になっています。 まぁ、私も深入りせずに、純粋に遺跡などから見えることだけについて、簡単に触れるだけにしたいと思います。 任那のあった地域からは、世界的に日本でしか発見されていない前方後円墳が見つかっています(そのため、「前方後円墳は韓国が起源」と主張する韓国の学者もいます)。朝鮮半島の他の地域では、見つかっていません。 さらに建設年代を見ると、日本のものは3世紀から7世紀ぐらいまで建設されていたのに対して、任那の前方後円墳は5世紀から6世紀のものしかなく、任那の消滅後は建設されていません。 日本の支配下にあった時代だけに、作られていたと考えるのが自然です。 また任那の古墳からは、副葬品でヒスイ製の勾玉が出土しています。当時東アジアでヒスイが産出されたのは、糸魚川(現在の新潟県糸魚川市)周辺だけでしたから、日本から輸出されたものか、日本から任那に渡った人物が持ち込んだと考えられています。 任那の存在は中国の歴史書にも登場し、ヤマト政権の影響下にあることが記載されています。 なので「任那は日本の支配下にあった」史実を、「日本の右傾化」だとか、「領土的野心の表れ」とする論調は、歴史的な根拠を欠く、極めて政治的な主張です。 それを「歴史の修正主義」と呼ぶわけです。 とまぁ、皮肉はさておきまして、他の三国についての簡単な解説です。 北の高句麗は、現在の北朝鮮東部で紀元前1世紀ごろに興こりました。 漢王朝が滅び、中国が魏晋南北朝の戦乱期になると、それに乗じる形で、現在の中国東北部に大きく領土を拡大させました(最大領域は5世紀から6世紀にかけてです)。 6世紀ごろの情勢は、中国南朝や柔然、突厥などの北方遊牧民族と手を結び、中国北朝や、百済・新羅と争ってきました。 この高句麗の広大な領域は、現在、中国と韓国の歴史学会の間で、激しい対立を引き起こしています。 十数年前ですが、中国の歴史学会が、高句麗を「中国の地方政権の一つ」と定義したのに対して(現在の中国遼寧省、吉林省の高句麗領が半島の領土より広く、また前漢時代からの中国との交流で、文化的に漢族化していたからです)、韓国の歴史学会が、「いずれ北朝鮮を中国に併合する口実だ」と、大反発したことがあります。 一方、韓国の一部の学者は、「中国東北部は高句麗の領土であり、今も朝鮮民族が多数住んでいる」として、「満洲は韓国のもの」と主張して、中国当局を怒らせたこともあります。 とかく、歴史を政治に利用すると、ろくでもないことになるよと(安倍総理が数年前ですが、「歴史の評価は歴史家が決める」と発言していたことがあります。これは歴史学的にみて非常に正しい意見です)、隣の島国にすんでいる鳥は、小さな声でさりげなく意見を言いたいと思います。 次に百済ですが、4世紀ごろの建国と言われています。この国は中国の南朝と日本に朝貢し、良好な関係を築いていました。 東の新羅とは、高句麗をめぐっては共闘関係でしたが、それを除けばライバル関係でした。 そのため百済が特に重視したのは、日本との関係でした。中国の南朝は軍事的な支援は行ってくれませんでしたが、日本は援軍を送ってくれたので、百済はヤマト政権が欲している製鉄技術などを求めに応じて提供し、貢ぎ物を献上するなど、歓心を買うことに努めています。 最後に新羅ですが、誕生は現在の韓国では紀元前57年ごろの建国とされていますが、史書に登場するのは、百済と同じ4世紀ごろで、それ以前の状況は不明です(「新羅」を国名にしたのは、西暦503年の事です)。 有名な「広開土王碑」によると、高句麗の支配を長く受け、独立後も日本の支配を受けていた時期もあったようで、三国中一番弱小でした。 新羅は地理的に、高句麗に阻まれて北朝と行き来が出来ず、必然的に南朝に朝貢していました。さらに新羅のライバルである百済が、実質的に日本を囲い込んでいたため、北(高句麗)、西(百済)、南(日本)とも、気を抜けない立場にありました。 新羅の国土は、太白山脈、小白山脈が南北に走る山地の多いところで、人や物の行き来が不便で、人口も多くなく(百済の半分程度の人口と推測されています)、国力は小さかったようです。 しかし朝鮮半島の統一は、この新羅を中心に進んでいくことになります。 次回は、西暦535年の災害の影響が、朝鮮半島に何をもたらしたかについて、触れたいと思います。
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