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カテゴリ:西暦535年の大噴火
前回の続きで、西暦535年以降の朝鮮半島の話です。 現存する朝鮮半島の記録に、西暦535年の大災害に触れたと思われるものは、実はほとんどありません。 僅かに『三国志記』という歴史書(12世紀に、高麗王仁宗の命で編纂された歴史書です。ただし4世紀以前の史料的な信頼性は疑問視されており、新羅の半島統一以前の記録も、高句麗や百済の記述が少なく、非常に偏りがあることが指摘されています)に出てくる高句麗535~538年ごろの記録に、「雷が鳴り、伝染病が流行した」「大変な干ばつが起きた」と記載されているだけです。 正直、これだけだと何も書きようがないのですが、日本や中国の史書に残されている三国の動きからわかっていることを中心に、何が起きたかを推測したいと思います。 まず百済は日本へ食料支援を求めました。この時期、百済王がヤマト朝廷に仏像を贈っていますが、これらは日本からの支援を囲い込む策でした。 6世紀ごろになると、新羅の国力も大きくなってきて、百済と新羅の関係はぎくしゃくしたものとなってきていました(それまでは、新羅は百済に協調というか、従属する傾向があったようです)。 それ故に、日本と新羅が接近することを警戒して、日本に貢物を贈って、関心を百済のみに向けさせようとしていました(ヤマト朝廷は、自国も飢饉のため、百済に食糧支援はしなかったものの、任那の一部を百済に割譲しています)。 一方の高句麗は、新羅や百済を圧迫する一方、北斉や突厥と結んで、柔然に追い打ちをかけています。 これは国内の飢饉や伝染病(天然痘)対策に、食料の収奪と労働力の確保(つまり奴隷を得るため)を意図していたと考えられています。 そして新羅は、仏教の布教と身分制度の整理と、中央集権体制の確立(実質的には軍事政権といいって言い代物でした)という、国内改革に専念していました。 なぜ新羅が、他の二国のように早急な領土拡大策をとらなかったかというと、やはり新羅の国力が一番弱く、周囲を外敵(高句麗・百済・日本)に囲まれていたからです。つまり、戦いの準備を整えるところから始めなければならなかったのです。 新羅に仏教が伝来したのは、528年のことと言われています。高句麗が372年、百済が384年に仏教が伝来していますから、かなり遅い伝来です。 これは日本同様、国内の反対が強く、見送られていたのだと考えられています。 なぜ仏教が、戦う準備につながるのかというと、それは新羅の身分制度骨品制と合わせることで見えてきます。 骨品制とは、氏族に序列を大きく8つの階級に分けて制定し、就任可能な新羅朝廷の官職を定めたものです(王位継承権を持つ王族は、聖骨(ソンゴル)、王位継承権を持たない王族や貴族は真骨(ジンゴル)といい、この二つの階級が、朝廷や軍の行為を独占しました)。 530年代以前は、王都のある金城(現在の大韓民国慶尚北道慶州市)だけで導入されていただけでしたが、それを仏教とともに、国中に適用しました。 骨品制が、他国の身分制度と大きく異なるのは、結婚から衣服の種類、食事の量や質、ぜいたく品や家屋のスペースといった部分にまで、細かい差別化が定められた点です。 この骨品制が国中に適用された理由は、言うまでもなく、新羅支配下の民衆を、新羅王を頂点とするピラミッド式の身分社会に組み入れるためでした。 そして同時に布教された仏教により、新羅王は「仏陀の化身」という権威付けがなされ、王の命は仏陀の命令と同一視されました。 この方法が、新羅で驚くほどうまく成功した理由は、530年代の大飢饉と異常気象という外的な要因と、仏教の伝来が一番遅かったという単純かつ皮肉な理由でした。 すでに仏教の浸透していた高句麗や百済では、今更光り輝く仏像を見たところで民衆はインパクトを感じませんでしたし、疫病や飢饉に際して仏像に救いを求めても、救われない苦い現実を知っていました。 しかし新羅の人々には、初めてみる光り輝く仏像の神々しさと、その化身たる新羅王という権威付けは、非常に効果的だったのです。 あと現代人からすれば、束縛と不自由しかない身分制度ですが、当時朝鮮半島が、酷い飢饉に苦しんでいたことを考えると、悪い話ではありませんでした。 なぜなら、骨品制の規定により、身分最下層の人々にも、最低限の食の保証がされたからです。 でも飢饉だったんでしょ? どうやって食料を確保したの? と思うでしょうが、ここから先の答えは簡単です。先に触れたようにここからは戦争によって、自国にないものは外から奪えばいいのです。新羅は周辺地域に侵攻して、食料や物資、領土を奪っていきました。 戦争で骨品制と仏教は有効に機能しました。戦場で武勲を建てた者は、骨品ランクが上がり、その分生活が豊かになりました(ただし身分上昇には制限があり、平民は絶対真骨にはなれません)。 そして戦死したら「極楽浄土」にいけることになります。仏教と骨品制は、新羅の領土拡大政策に見事に合致したのです。 この辺の原理は、前に触れたイスラム帝国と類似が見られます。 541年、即位間もない新羅の真興王(位540~576年)は百済と同盟し(羅済同盟)、高句麗と戦端を開きましたが、高句麗より百済の方が疲弊しているとみると、550年に一転して同盟を破り、百済領に進攻して、道薩城と金峴城(現在の韓国忠清北道)を奪いました。 そして551年には、今度は高句麗に進攻して、10郡を奪って北の国境を押し上げると、次いで南の任那を攻めました。 弱いところを見極めて、それを的確に突く形で、領土を拡大していったのです。 この頃、大挙して日本に渡来する人々の中継地となっていた任那は、政治・軍事の機能が飽和しており、難民対策に飢饉への対応で日本からの援軍も期待できなかったため、防衛体制は破綻しており、任那の大部分は新羅に奪われました。 度重なる新羅の背信に怒った百済の聖王(位523~556年)は、任那の諸侯を糾合して、新羅を攻撃しましたが、伏兵の襲撃を受けて聖王は戦死してしまい、百済・任那連合軍は瓦解しました。 そして新羅は、562年までに任那全土を制圧し、朝鮮半島南東部を支配下に置きました。 一連の戦争で、新羅は国土を倍に拡大しました。消耗した兵力の補充も、占領地の民衆を骨品制の身分制度に組み込むことで、「新羅人」にしていくことができました。 骨品制は「戦争で戦争を養う」制度として、有効に機能したのです(一方で、統一後は身分制度の硬直化によって、新羅の社会体制は、緩やかに破綻していくことになります。なぜなら戦争が無くなったことで、生活の向上が望めなくなり、それが国家への忠誠心の低下、国力の停滞と、負の連鎖をまねいたからです)。 6世紀終わりまでに、新羅は領土的には百済を凌駕するようになりました。そして中国の隋に朝貢して、独立国「新羅」としての立場を承認されました。 こうして朝鮮半島は、改革の遅れや隋や唐との戦争で疲弊、弱体化した高句麗と百済を圧迫していき、半島統一への長い道のりを歩んでいくことになります。
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