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カテゴリ:西暦535年の大噴火
前回は、まるで教科書の話のようになってしまいました(汗)。 今回からそういう話から離れる予定です。 さて、中国を統一して太平の時代を迎えた隋ですが、不安要素がなくなったわけではありません。 まずは隋の文帝の為人です。 文帝は質素を好む倹約家で、信心深い熱心な仏教徒であり、それまでの中国の文化を守りつつ、法律や行政機構を近代化させる大改革を、強い決断力でやり遂げる強い完璧主義者でした。 しかし半面、臣下の些細な失敗が許せない狭量ななところがあり、また猜疑心が強くて迷信深いところがありました。 その負の部分が、皇帝になって以後、徐々に表面化していくことになります。 宮廷には杖が置かれ、些細な失敗をした者や、期待された成果を上げられなかった者は、文帝自ら杖をもって、臣下を殴りつけたと言われています(それで命を落とした者も出たと伝わっています)。 さらに晩年は占いに凝り、怪しい道士などを身辺に置くようになり、一層猜疑心や迷信深い部分が肥大していきます。こんな逸話があります。 文帝はある日夢を見ました。 それは、立派な楊(やなぎ)の木が、李(すもも)の木と喧嘩して、楊が倒されてしまう。その後洪水が起こり、楊の木が流されてしまうという夢でした。 中国史に詳しい人なら、隋(楊氏)から唐(李氏)への王朝交代を、寓話にしたものだなぁと感じます。もちろん文帝も同様に考え、李姓で、水(さんずい)のつく人物が、隋を亡ぼすと考えました。 彼がこの時脳内で浮かべた人物は、皇后の甥で、隋室(隋の皇族)に次ぐ大貴族唐国公李淵(唐の高祖)ではなく、夢を見た日に会見予定だった郕国公李渾という人物でした。 しかし郕国公はすでに老齢で、特に才知や武勇に優れた人物ではなく、父大師(皇帝の補佐役)李穆将軍の功績で、貴族に叙せられている程度の人物で、お坊ちゃま育ちの好人物でした。 さすがに文帝も、彼が隋に取って代われる人物とは思わなかったものの、雑談の時、郕国公の孫(彼は早世した一人息子しかおらず、息子の忘れ形見の孫の成長だけをよりどころにしている老人でした)の名前が「洪」であることを知ると、猜疑心を爆発させました。 ほどなくして、郕国公の孫は賜死(君主から、死を命じられること)となりました。 何の罪を犯したわけではない幼児が、文帝の見た夢が原因で罪なくして処刑されたのです。 また、皇太子だった長男楊勇と対立し、これを廃立しました。 楊勇は性格は温厚で学問にもはげみ、臣下からの評判の良い人物でしたが、奢侈を好む点があり、文帝は疎みました。 こういう場合、母が父と息子の間を取り持ったりしますが、生母の独弧伽羅皇后もまた、楊勇が何人もの側室を持っている点を嫌っており(彼女は当時珍しい一夫一妻制の主張者でした。ただそれを夫文帝だけでなく臣下にも強要し、従わない者は容赦なく讒言して貶める悪癖がありました)、逆に夫に讒言して、皇太子廃立を勧めました。 かくして次男の楊広、のちの隋の煬帝が皇太子となりました(楊勇は、煬帝が即位した際に、後難を恐れた弟の手で処刑されました)。 この際、楊勇廃立に反対した宰相高熲(文帝を20年以上にわたって支えた名宰相で、彼の手腕なくして、隋の建国はなかったと言われるほどの功臣でした)を罷免するなど、有能な人材が徐々に排除されていきました。 そんな朝廷内の不安要素の他にも、外からの脅威は依然健在でした。 北のモンゴル高原では、柔然に取って代わった突厥が依然強い勢力をもって、隋に不穏な気配を示しており、東の高句麗も、北朝の混乱と柔然衰退に乗じて、北に大きく領土を拡大させて、隋の動向を窺っていました。 そして589年に高句麗が遼西に侵攻してくると、隋への外からの脅威は現実のものとなりました。 この時の高句麗の隋領侵攻の理由は不明です。中国を統一して誕生した超大国隋の対応能力を確かめるための、威力偵察だったのではないかとも言われています。 しかしこの高句麗の行動は、両国の運命を大きく狂わせ、激動の7世紀への切っ掛けになっていきます。 高句麗の侵攻に不快感をもった文帝は、30万もの大軍を動員して、高句麗討伐に派遣しました。 しかし、今の北京を含む河北省地域は、戦乱の影響や西暦535年の大災害のダメージがまだ残っており、交通網も貧弱で食糧の補給もままならず、さらに天然痘が猛威をふるっていたため、遠征軍は戦う前に大きな損害をこうむりました。 しかしこの時は大きな戦争にならずに終わりました。隋の大軍が国境近くに集結するのを見た高句麗が、すぐに謝罪して臣下の礼を申し出たからです。 文帝も本心としては、戦争拡大を望んでいなかったため、この時の隋と高句麗の戦争は、大きくなる前に終息しました。 604年に文帝が崩御し、中国史上屈指の暴君と言われる煬帝(位604~618年)が即位しました。 彼の諡(おくりな)「煬」という字には、「礼を行わずに天を逆らい、民を虐げる」という意味があります。中国史上、ここまで酷い諡をおくられた皇帝は希です。ただし彼の悪名の半分は、後世に誇張され貶められたものでもあります。 余談ですが、彼の名は、日本でも比較的知られているのではないでしょうか。 かの聖徳太子が遣隋使を派遣し、その国書を受け取ったのが煬帝です。聖徳太子の事を教わると、煬帝も出てくるからです。 有名な国書の冒頭文「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」は、私は小学校の社会の時間に習った際、かなり衝撃を受けた記憶があります。 煬帝は「無礼な野蛮人の(国)書を、今後自分に見せるな」と怒ったと言われていますが、遣隋使の小野妹子が帰国する際には、答礼使(国書を奉じてきた相手国に対して、返礼に派遣される使者の事)に臣下の裴世清を随行させて、国書を日本に送っています。 つまり煬帝は、日本(厳密にいえば、当時は「倭国」ですが)と国交樹立を選択したのです。 彼は国書の文言に不快を感じたものの(煬帝が不快に感じた点は、「天子(皇帝)」という部分と言われています。「天子」を称せるのは、地上で唯一隋の皇帝のみであり、他国の「王」が、「天子」と称したことに腹を立てたということのようです)、日本が遠く海の向こうにある国で、大海を航海する危険を冒してまで、隋の天子(煬帝)への挨拶を欠かさなかった事を、好意的にとらえていたのだろうと言われています。 そのため日本の留学生受け入れや、仏教や法律に関する書物などの提供を、快く応じています。 この点を見てみると、遣隋使を受け入れたころの煬帝は、暴君ではなく、度量のある人物だったと言えそうです。 話を元に戻します。 即位前の煬帝は、父文帝の前では倹約家、母独弧伽羅皇后の前では、愛妾を持たず夫人を大事にする夫でしたが、実際には、廃立された兄と同じくらい贅沢好きでしたし女好きでした。彼はただ、親の前では「いい子」を演じていただけだったのです。 こう書くと狡猾なイメージになりますが、良い言い方をすればTPOをわきまえられる性格だったと言えます。煬帝は廃立された兄楊勇と並ぶほどの文人・詩人でもありましたが、これは彼が兄同様、勉学に励んだ努力の賜でもあったのです。 ただ、両親から押さえつけられていた期間が長かったためか、皇帝になってからその反動や自我が未熟な面が表面化し、歯止めがかからなくなってしまったように感じます。 煬帝は即位すると、父文帝時代の鬱憤を解消しようとするがごとく、大興城(長安)の大拡張に、黄河と長江を結ぶ大運河建設といった大規模な土木事業に手を出していきます。 煬帝のおこなった大運河建設は「女子供を含めて100万人以上を強引に徴発して、煬帝が江南で船遊びをするために建設した」と現代中国ではいわれており、暴政の象徴として強い批判がされていますが、もちろん建設理由は皇帝の船遊びのためではありません。 工事に動員された人民には賃金が支払われており、今で言うところの失業者対策と、長い戦乱で住む場所を失い、流民化していた人々を定住させる意図がありました。 作業が過酷だったのは確かなようですが、現地人がイメージするような、タダで民衆を酷使したものでは無かったので、同世代の記憶に民衆の怨嗟の声は残されていません。 怨嗟の声が聞かれるようになるのは唐代に入ってからで、これは王朝が交代し、不満や恨みを自由に言えるようになった結果なのか、それとも煬帝を貶めるため、唐朝が脚色を加えたものなのかは、注意して見ていく必要があります。 つまり大運河建設の理由は、後世実際に運用されたように、中国南北の物資移動を円滑にして経済を活性化させるためでした。 大都市化を進めていた隋の都長安の、巨大な人口を支えるには、関中地方の農業生産力だけでは完全に不足で、江南地方から米を輸送しなくてはならず、その輸送のために必要なものでした。 このように見ていくと、首都長安の拡張と大運河建設は、民衆の定住・安定化と経済発展を見据えた国家百年の繁栄を意図した大事業だった訳ですが、惜しむらくは、その恩恵を隋が受けることは無かったでしょうね。 煬帝がつくった長安は唐代に世界都市へと発展し、大運河は中国経済を支える大動脈になっていきます。 もしこの時点で煬帝が崩御していれば、彼の名は悪名にまみれたものにはならなかったでしょう。しかし煬帝の名声を地に貶め、暴君としてのみ記憶されることになる大事件が発生します。それは高句麗との戦争でした。 次は、隋と煬帝を破滅に追いやる高句麗遠征に触れたいと思います。
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