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カテゴリ:西暦535年の大噴火
隋が滅亡への道を進むきっかけとなった高句麗への遠征は、朝鮮半島南部の百済と新羅が、高句麗の討伐を懇願してきた事に端を発します。 7世紀初頭、朝鮮半島は高句麗、百済、新羅の三国の戦乱が続いていました。 特に百済は弱体化が著しく、領土の多くを高句麗と新羅に奪われていました。 百済は最初日本に援軍派遣を要請したものの、総司令官の来目皇子(聖徳太子の弟)が病死して日本軍の渡海は中止になってしまい、代わって隋に助けを求めたのです。 これを見た新羅は、百済と歩調を合わせることにしました。任那を併呑し、国家機構を改革して順調に強国化が進む新羅も、単独で高句麗と戦う力はまだ無く、ましてや大国隋を敵に回すリスクは避けたかったのです。そこで新羅も「高句麗の横暴に苦しんでいます」と言い出したのです。 百済と新羅からの要請を受け、煬帝は高句麗遠征に趣味を抱きました。 父文帝は中国統一を実現して、天下に武威を示しました。自分も高句麗を征伐すれば、同様に威光を示せると考えたのです。 それに、598年に高句麗は突然隋領に侵攻して来ました。文帝は軍を送ったものの遠征に失敗しました。儒教倫理的に考えれば、煬帝が高句麗を討伐することは、父帝の汚名をそそぐ「孝」にかなったものでした。 また、高句麗が支配する遼東半島と平壌(今の北朝鮮首都)は、漢代に楽浪郡がおかれ、中国の領土でした。その点から考えれば、「高句麗は中国の土地を奪った侵略者であり、奪われた領土を取り戻す」と、大義名分も主張できました。 煬帝は高句麗の嬰陽王(位590~618年)に詰問と召喚状をおくりました。10数年前、隋に侵攻したことを長安に来て弁明せよと要求したのです。 煬帝の要求に嬰陽王は恐怖しました。 侵攻した件は謝罪が受け入れられて、すでに解決済みのはずなのに蒸し返されたからです(もっとも彼もやましいところがなかったわけではありません。隋と敵対していた突厥と密かに同盟していたからです)。 彼は長安に赴けば生きて帰れないと考え、弁明書は送りましたが召還は無視しました。 これこそ煬帝の狙いでした。彼は高句麗王が長安に来なかったことを口実に、高句麗討伐の動員令を発し、自ら琢郡(現在の北京)に親征しました。 煬帝の命令で集められた軍勢は、『隋書』によると、113万3800名と伝えられています。 さらに遠征軍の兵糧を運ぶ人夫も約200万人徴発されました。当時の隋の総人口は、約4500万人でしたから、男性人口13%弱の軍役・雑役という、非常に重いものでした。 「これほどの大軍、(秦の)始皇帝も(漢の)武帝も率いたことはあるまい。朕だけだ」 612年正月、遠征軍を閲兵した煬帝は、満足げに周囲に語りました。 この瞬間、煬帝の権力は間違いなく頂点でした。しかしわずか6年後、彼のみならず隋という国家を死に至らしめる、破滅の始まりであったことを知るよしもありません。 100万を超す隋軍の侵攻に対して、高句麗軍は国境での防戦を断念し、自国の村を焼き、井戸を埋めて、焦土作戦を展開しました。 この非情な采配をふるったのは、高句麗の名将乙支文徳(生没年不明)でした。 一説には彼は隋の遠征が始まると、偽りの降伏をして隋軍の内部に入り込み、隋軍の補給に問題があると見抜くと(やはり、100万を超す大軍を支える食糧の準備、輸送は容易なことでは無く、机上の計画では問題なくても、実際の輸送は無理が多く停滞してしまったのです)、脱走し高句麗に戻り、隋軍を領内奥深くに引きずり込んで疲弊させた後に、反撃に転ずるという手を取ったと言われています。 隋軍は進撃すればするほど、苦しい戦いになりました。周囲には焼き払われた村の跡しか無く、飲み水の確保にも難渋したのです。 隋軍の兵糧は、前線に運ばれる途上で、高句麗軍の襲撃で焼き討ちに遭い、遠征全体に食糧が行き渡らず、飢えに苦しむようになりました。 隋軍は遼東城を包囲して攻撃を開始したものの、高句麗軍の必死の抵抗に(高句麗側も重要拠点である遼東城は放棄せず、徹底抗戦しました)、攻めあぐねていました。 業を煮やした煬帝は、重臣の宇文述(遠征軍の事実上の指揮を執っていた皇帝の名代)に30万の兵を与えて陸路平壌を攻撃させますが、乙支文徳は平壌城まで約30里の薩水(現在の北朝鮮にある清川江)まで、隋軍を引きつけたところで反撃に転じ、食糧不足で戦意のなくなっていた隋軍を、一気に壊滅させました(隋軍30万の将兵の内、遼東城まで帰り着いた兵は、1万に満たなかったと言われています。激怒した煬帝は、生還した宇文述の官位を剥奪して庶民に落としました)。 ここに至り、煬帝は撤兵しました。 もしこの時点で、煬帝が遠征の失敗を謙虚に受け止め、高句麗との講和へ舵を切っていたら、隋の滅亡は無かったかも知れません。しかし彼は自分に屈辱を与えた高句麗を許しませんでした。 翌年、約60万の大軍を動員して再遠征を開始しましたが(第2次高句麗遠征)、途中で将軍の楊玄感が反乱を起こしたため(彼は食糧輸送の責任者でしたが、それが不満で職務をおざなりにしていました。その事が発覚し、煬帝に誅殺されるのを恐れて挙兵しました)、遠征は中断しました。 楊玄感の反乱は三ヶ月で鎮圧されたものの、触発された民衆の反乱が各地で勃発しました。 高句麗遠征による重税と兵役の負担に、民衆は耐えられなくなっていたのです。 しかし煬帝はこれを無視して、3度目の高句麗遠征を命じました(3度目の遠征軍がどれほどの規模だったかのかは、記録に残されていません)。 一方の高句麗は、隋以上に疲弊しきっていました。元々隋と高句麗では国力に差がありますし、自国で焦土作戦を実施したため、国土の荒廃が著しかったのです。 そこで乙支文徳の献策で高句麗は隋に降伏しました。 乙支文徳は、高句麗に亡命していた隋将斛斯政を手土産に(彼は楊玄感の友人で、反乱に関係していると見なされることを恐れて、高句麗に逃亡しました。斛斯政が楊玄感の反乱計画を知っていたか不明ですが、逃げたことで当然反乱に連座していたと見なされました)、嬰陽王の長安召還や領土割譲など、隋の厳しい要求をすべて承諾しました。 情報収集と分析に長けていた彼は、この後隋は、内乱で外に目を向ける余裕が無くなるとみていました。今さえしのげばどうにでもなると考えていたのです。どんな過酷な要求でも守る気がないので、何でも丸呑みしたのです(彼が言を左右にして引き延ばしたのは、隋軍の帰国に際して、嬰陽王を同行させない一点だけでした)。 文徳の態度に、隋の廷臣のほとんどは、高句麗の姑息な時間稼ぎではと不信感を抱きましたが、煬帝は「手土産」に満足したため、講和を受け入れます(斛斯政は後日、洛陽の市で処刑されました)。 こうして隋は撤兵しましたが、当然高句麗は朝貢せず、講和の条件はすべて反故にされました。 翌614年、騙されてたことを悟った煬帝は激怒し、4度目の高句麗遠征の意向を示しましたが、もはや国外へ遠征する余力は、隋にはありませんでした。反乱は中国全土に広がっていたからです。 次は隋の滅亡について触れてみたいと思います。
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