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カテゴリ:西暦535年の大噴火
度重なる重税と軍役は、民衆の隋朝への忠誠心を失わせていました。 各地で反乱が相次ぎ、煬帝は有力諸侯に反乱鎮圧を命じますが、本人は酒色と漁色に溺れて国政を顧みなくなりました。そして戦乱が続く中原を避けて、江都(現在の江蘇省揚州市)へ行幸しました。 比較的平穏な華南に一時的に避難して、煬帝は休息したかったのかも知れませんが、行幸は事実上、隋朝が華北を維持出来なくなっていることを、天下に示す事になりました。 当初は、河南討捕大使(河南方面の反乱討伐軍司令官という意味になります)張須陀の奮闘で、河南の大部分を保持出来ていたので、隋はかろうじて統一王朝の体裁を保っていましたが、2年後、孤軍奮闘していた張須陀が戦死すると(彼はわずか1万の軍を率いて、数に勝る賊軍をたびたび破って河南を守っていましたが、朝廷からの支援もなく彼の軍は疲弊し、河南に勢力を拡大してきた翟譲率いる反乱軍10万に攻められて敗れ、非業の最期を遂げました)、江都と長安・洛陽との連絡線は絶たれ、煬帝は江都に孤立しました。 この事態に至っても煬帝は国政を顧みようとせず、というより完全に国政を放棄して、江都の宮殿にこもるようになりました。 そして皇帝のいない都長安は、隋朝に反旗を翻した唐国公李淵(唐の高祖。煬帝の従兄にあたります)が占領しました(618年。この時点では、煬帝の孫で長安に残留していた代王楊侑を皇帝(隋の第3代で最後の皇帝恭帝)にたてて、煬帝を強制的に退位させる形式を取っています)。 唐の反乱を仕切っていたのは当主の李淵でなく、若干18歳の次男李世民(後の唐第2代皇帝太宗)でした。それを知った煬帝は、「息子に煽られて天子に背くとは、叔徳(李淵の字)はなんと臆病な男よ」と嘲笑したと言われています。もっとも煬帝自身は、その臆病な従兄と対決する勇気を持ち合わせていませんでしたが。 河南失陥と唐の離反により、隋朝の瓦解は決定的になりました。 西の山西から関中は唐の支配下となり、洛陽周辺は半ば自立した隋将王世充と、翟譲を殺してその軍を乗っ取った乱世の奸雄李密が抗争を繰り返し、河北では農民からのし上がった竇建徳が勢力を拡大しており、隋朝の支配領域は、実質的に江都とその周辺だけになっていました。 一方華北が隋の支配から離れたことに、江都にいる禁軍(皇帝直属の近衛軍)10万の将兵たちは激しく動揺しました。 彼らのほとんどが華北の出身で、家族を郷里に残していました。戦乱にあえぐ遠く離れた故郷と家族の身を案ぜぬ者はいません。脱走する者があとを絶たなくなってきました。 折衝郎将(今の地位でわかりやすく言えば、近衛師団麾下の連隊長位の地位になるかなと思います)の沈光が「陛下が一言お命じ下されば、禁軍10万の将兵は、勇躍して叛乱軍を討ち、洛陽も長安も取り戻してご覧に入れます」と嘆願しましたが、政務を放棄した煬帝の耳に入ることはありませんでした。 煬帝が脱走者を容赦なく処刑するよう命じたため、将兵たちの不満は、煬帝への敵意、害意となってくすぶり、動揺は江都に随行した重臣や官僚たちにも広がり、やがて半ば公然と皇帝弑逆の陰謀がたてられるようになりました。 中心になったのは、隋朝きっての功臣宇文述の息子で、右屯衛将軍だった宇文化及とその弟の宇文智及でした。 ちなみに、二人の下に士及という弟がいましたが、兄たちとは異なり、ほどほどの能力と穏健な人柄だったので、理性がまともだった頃の煬帝に気に入られて娘婿になっています(煬帝の義理の息子である士及は、謀議に加わっていません)。 功績ある父とは異なり(高句麗遠征の失敗で一時失脚しましたが、翌年の楊玄感の反乱鎮圧で功績があったことから、許されて復位しました。江都へも随行し616年に病死しました)、化及と智及が煬帝の側近だったのは、父の功績を鑑みてのものであり、彼ら自身の功績はありません。 それどころか、化及と智及は父の権力を盾に金品を強請り取ったり、他人の妻を拐かしたりと、「金持ちのどら息子」そのもので(化及は長安で「軽薄公子(頭の悪いおぼっちゃん)」と揶揄されていました。父宇文述は不祥事のたびに廃嫡を考えたものの、親子の情で見送り、代わりに自ら金を持って、被害者に謝罪して歩いていたと伝えられています)、功臣どころか佞臣、奸臣というべき存在でした。 隋朝に寄生するしか生きる術のない彼らが、なぜ皇帝弑逆という暴挙に出たのか、明確な理由は不明です。ぶっちゃけ「頭が足りなかったから」で終わりな気がします(苦笑)。 考えられることとしては、禁軍将兵の不満が高まりすぎて、反乱が起きた場合、側近の自分たちも煬帝と一緒に殺される可能性が高かったこと、彼らも江都に飽きており(江都での生活に満足していたのは、南朝文化に耽溺していた煬帝だけでした)、北の故郷に帰りたかった。人心を失った煬帝を殺せば、天下の名声と信望を得られると考えていたのかもしれません。 宇文化及は司馬徳戡・趙行枢・裴虔通ら、煬帝に不満を持つ軍人や廷臣たちを味方に引き入れる一方、クーデターの邪魔になる折衝郎将沈光の軍を、偽の賊軍討伐の任務を与えて江都から追い出し(後日沈光は、隋将で唯一、煬帝の仇討ちをはかって、宇文化及の反乱軍と戦い、戦死しました)、準備を整えた宇文化及は、反乱を起こしました。 反乱軍兵士を引き連れて化及と智及は、煬帝の寝室に押しかけると、主君に向かってその罪を弾劾しました。 無言で化及の弾劾を聞いていた煬帝は、「佞臣を取り立て、国政を乱した」という言葉を聞くと哄笑しました。 「政(まつりごと)を疎かにする朕は万死に値するか? よかろう、朕を殺すがよい。だが其方の言う佞臣とは誰のことか? 佞臣とは朝廷に功なく、天子に取り入り位をえた者であろう。其方らは父とは異なり、何一つ功なきにもかかわらず高き官職にあるが、誰が其方らを高位につけたのか? 佞臣とは誰のことであるか? 答えよ化及! 智及! 天子の厚情を仇で返すとは、まさに天意に背く逆臣よの。其方らの行く末、先が知れておるわ」 皇帝の嘲笑った言葉に、化及と智及は顔を青くして反論出来ず、「殺せ! 殺せ!」とわめき立てたと言います。 煬帝は首にシーツを巻き付けられ、兵士たちに綱引きによって絶命しました。享年50歳。 死に際して、一切の抵抗や命乞いはなかったと伝えられています。 618(大業14)年4月、煬帝の死によって実質的に隋は滅びました。
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