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カテゴリ:西暦535年の大噴火
さて、今のところ、好調に「西暦535年」シリーズが書けています。 ですが断言します。そろそろペース落ちます(え?)。 618(大業14)年4月、煬帝を弑逆した宇文化及らですが、煬帝に「予言」されたように、その後は先の知れた話になりました。 化及は秦王楊洪(煬帝の甥。煬帝の実子趙王煬杲(この時13歳)も江都にいましたが、父帝の死に号泣する趙王を見て、興奮した賊将の裴虔通が思わず殺してしまったため、直系の皇帝をたてられなくなりました。煬帝の正妻蕭皇后はかろうじて殺されませんでした)を皇帝に擁立し、自らを大丞相と称して、軍勢を率いて華北へ帰還をはかりましたが、この頃寄せ集めの反乱勢力の結束は、すでに瓦解寸前でした。お約束な話ですが、内部で権力闘争が始まったのです。 化及は軍の実質的なまとめ役だった司馬徳戡を誅殺しました。名ばかりの将軍である自分とは異なり、実戦経験のある徳戡が、反逆することを恐れたのです。 しかしこの結果、軍の統率は乱れてまとまりが無くなりました。10万の禁軍はただ10万の烏合の衆に変わったのです。 彼らは黄河の南、河南地方まで戻ってきましたが、皇帝を弑逆した化及らを、唐の李淵(唐の高祖)も洛陽の王世充も嫌って無視したため、そこで行き詰まりました(ただし李淵は、煬帝弑逆に加わっていない宇文士及だけは受け入れたので、士及は兄たちを見捨てて唐に投降しました)。 この事が、宇文化及の理性を完全に失わせたのかも知れません。彼は擁立していた秦王楊浩を毒殺し、自ら皇帝を称しました。 「どうせ死ぬのだ。ならば天子になって、世の享楽を味わいたいではないか」 と、泥酔しながらつぶやいたと言われています。こんな化及にまともな政治が出来るはずも無く、占領地では略奪暴行が吹き荒れました。 化及の行き当たりばったりの凶行は、河北の群雄竇建徳を刺激しました。 「わしは隋の天下に叛いた身であるが、宇文化及とやらの非道は見過ごせぬ。これを討って天下に正義を示したいと思うが、諸君の意見はどうか?」と、部下たちに問いました。 ここでいつものように脱線しまして、日本では(実は中国でも)無名な、竇建徳について簡単に説明したいと思います。 竇建徳は農民の里長(村長)の家に生まれ、天下への野心とは無縁の穏やかな人生を送っていました。 その頃から、農民たちから正義感の強い誠実な人と慕われていたといいます。 彼の人生が暗転するのは高句麗遠征の際です。二百人長となり後方任務に従事していた彼ですが、脱走兵を哀れに思い、逃亡を見て見ぬふりをし、匿って食事を与えたことを咎められ、戦後、家族を皆殺しにされたため、隋への反逆者の道を進むことになりました。 建徳の人柄を慕って、土地を追われた農民たちや脱走兵などが彼の元に集まり、討伐軍を返り討ちにしながら、大勢力の反乱軍頭目になっていきました。 農民出身の彼は、部下たちに略奪などを絶対許さず、降伏した敵兵にも寛大な姿勢で臨んだため、敵兵も彼を慕って付き従ったと言われています。 建徳の勢力が強くなると、他の武装勢力の脅威にさらされた隋の地方県令や、官吏、軍人たちが投降してきたので(隋の朝廷が彼らや領民を守ってくれない以上、竇建徳にすがるしか無かったのです)、煬帝が殺された頃には、河北の大半が竇建徳の勢力下にありました。 旧隋臣たちは、竇建徳を新たな主君と、気持ちを切り替えていましたが、一方で自業自得とは言え、かつての主君煬帝の無残な死を悼み、仇討ちを望む気持ちも抱いていました。彼らは建徳の言葉に、涙を流して拝礼したと伝えられています。 618年10月、竇建徳は自ら5万の兵を率いて黄河を渡り、両者は衝突しました。 兵力は宇文化及軍が上回っていましたが、指揮官の能力も兵の戦意も高い竇建徳軍に対して、実戦経験のある指揮官がおらず(反乱を恐れた宇文化及が、すべて粛清してしまいました)、士気も振るわない宇文化及軍は、戦うたびに数千もの戦死者を出しながら敗走し続け、618年12月、2万にまで討ち減らされた敗残兵とともに、宇文化及は聊城(現在の山東省聊城市)に逃げ込みました。 籠城戦で逃げ場の無い宇文化及軍が必死に抵抗したため、竇建徳軍も攻めあぐね、戦いは一時膠着しました。 しかし、翌年2月、竇建徳軍が攻城用の投石機を準備して、城門や城壁を破壊して城内に突入をはかると、宇文化及軍は総崩れとなり勝敗は決しました。 宇文化及と智及の兄弟は、兵たちはおろか自らの妻子も捨てて、金銭や宝石の入った麻袋を抱えて逃亡しましたが、すぐに捕らえられて竇建徳の前に引っ立てられました。 二人は、建徳の傍らに蕭皇后(聊城落城時、建徳は真っ先に彼女を保護しました)の姿を見つけると、「皇后陛下、お慈悲を!」と泣き叫びましたが、彼女が口を開く前に二人の首は刎ねられました。 煬帝弑逆からわずか10ヶ月で、反逆者たちの命運は尽きたのです。 竇建徳は蕭皇后に、この地に隠棲されるなら最大限の配慮をすること、もしご希望の地があるなら、責任をもってお送りすると申し出ました。 皇后は突厥(モンゴル高原)へ行くことを希望しました。 突厥は隋とは敵対関係にありましたが、文帝の時代、関係改善の一環として、突厥の可汗(王)に文帝の娘義成公主が嫁いでいました。蕭皇后と血の繋がりはありませんが、義理の姉妹になります。 彼女は、たった一人になってしまった肉親の煬政道(煬帝と蕭皇后の孫で、この時はまだ赤子でした。唐の高祖が擁立していたもう一人の孫恭帝は、帝位を高祖に禅譲させられた後、殺害されていました)を、戦乱の外で守りたかったのでしょう。 皇后の要望を聞いた建徳は、突厥に使者を送って義成公主と連絡を取り、丁重に蕭皇后とその一行を突厥に送り届けました。 この戦いの結果、竇建徳の勢力は黄河の南、山東や河南に拡大しました。また彼が見せた蕭皇后への配慮は、民衆からさらに人望を得ることになりました。 建徳は自らの国を「夏」と定め、「夏王」と称して、王朝、国家としての組織を整備していきますが、やがて彼の夏国は、西で勢力を拡大してきた唐と、敵対・対決していくことになります。 621年、両者は衝突しますが、竇建徳は虎牢関の戦いで秦王李世民に破れ捕らわれて、長安に送られます。 彼を見た高祖は、すぐに処刑を命じました。 唐の重臣・廷臣たちは驚き、「なぜ彼ほどの人物を殺すのです。何卒お考え直しください」と助命嘆願しましたが、その声の大きさが、一層高祖の態度を硬化させました。 高祖からすれば、一介の農民から、華北の東半分を支配する一大勢力を築いた竇建徳の手腕、唐の重臣たちをも引きつけるカリスマ性は、畏怖するに値するものでした。 昔から専制君主にとって最も恐ろしい敵は、隣国の名君名将では無く、自分に匹敵するかそれ以上の人望をもつ部下なのです。竇建徳を生かして許すなど、高祖は恐ろしくて出来なかったのです。 かくして一代の義人、竇建徳は処刑場の露と消えました。 高祖の判断は高くつきます。竇建徳が処刑されたことを知った彼の部下や河北の農民たちは、激怒して唐朝に反旗を翻し、建徳の親友で、竇建徳軍きっての猛将劉黒闥を盟主にすえて、突厥と同盟して唐に激しい抵抗を繰り返すことになります。 唐朝が、竇建徳の残党を鎮圧するのに要した時間は3年、失った軍兵は10万にのぼったと伝えられています。 こうして竇建徳の名は、歴史学的には、隋末唐初に現れて消えた群雄の一人として忘れ去られましたが、実は形を変えて彼の存在は今も息づいています。 日本でも『三国志』に並んで人気のある中国古典に『水滸伝』があります。 水滸伝に出てくる梁山泊の頭領宋江のキャラクターは、竇建徳をモデルにしていると言われています(もっとも竇建徳は武勇に優れ、知略にも長けていたので、宋江だけではなく、他のキャラクターを足して割った感じです)。 『水滸伝』を読んだ時、その中に竇建徳のイメージを感じてみるというのも、1つの楽しみ方かも知れません。
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