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カテゴリ:西暦535年の大噴火
久々の西暦535年シリーズです。 はぁ、話の脱線が長くなっていますなぁ(汗)。ここらへんで、話のピッチを上げていきたいところですが、どうなることやら・・・。 隋のあと中国を統一する唐王朝ですが、歴史の教科書や資料集を見ると、「建国者 李淵、李世民」と書かれていることが多いと思います。何故唐朝の建国者は二人なのか触れてみたいと思います。 隋末、唐国公当主は李淵(り えん。唐の高祖。位618~626年)でした。彼は煬帝の従兄にあたります。 温厚で思慮深く質素で控えめな人物でしたので、倹約家の隋の文帝から可愛がられましたが、派手好きの従弟煬帝(ようだい)からは、面白みが無い奴とソリが合いませんでした。 彼の性格が控えめだったのは、生まれついての気質でもあったでしょうが、出るクギは打たれる。派手に立ち回って皇帝など権力者に睨まれたら、一族誅殺の憂き目を見る当時の時代的背景が、人格形成に影響を与えていたのもあったのでしょう。 そんな人でしたから、隋の天下が乱れ戦乱となっても、自分から動くことはありませんでした。 一方、次男李世民(り せいみん。唐朝第2代皇帝太宗)は、父とは真逆の性格で、何事も積極果敢、才知にあふれ怖いもの知らずの気性でした。 挙兵を躊躇う父に、「皇上(煬帝のこと)忠誠に値せず。天下のため暴虐を除いて民を安んじなくてはなりません」と決起を迫ったのは世民でした(息子にけしかけられて挙兵した李淵を、煬帝が馬鹿にした話は前に触れましたね)。 王世充に破れて唐に亡命していた乱世の奸雄李密(りみつ。彼は楊玄感(よう げんかん)に反乱を唆したり、反乱軍の頭目翟譲(たく じょう)を暗殺して軍を乗っ取るなど、隋末の戦乱の陰の首謀者で、あちこちで災いを振りまいていました)は、李世民を見て「人中に龍を見た」と発言しています。 「自分以外に天下を治められる者はいない」と自惚れていた自信過剰な奸雄をして、勝てないと思わせる器量を、若い李世民はすでに持っていたようです(ちなみに李世民の方は、李密を「反骨の相(人を平気で裏切る性格と言う意味)あり。いずれ天朝(唐)を乗っ取ろうとする寄生木」と信用せず、彼を挑発して準備不足のまま謀反に追いやり、即座に誅殺しています)。 やがて唐が建国されると、皇帝に即位した李淵と、長男で皇太子となった兄建成(けんせい)は、長安に留まって内政を担当し、唐軍総司令官となった秦王李世民は、薛仁杲(せつ じんこう)・劉武周(りゅう ぶしゅう)・王世充(おう せいじゅう)・竇建徳(とう けんとく)・劉黒闥(りゅう こくたつ)ら、各地の群雄たちをすべて倒し、唐の天下統一を完成させました。 つまり、唐朝の統一は李世民の軍事的手腕による功績が絶大なのです。それが歴史の教科書に、李淵と李世民の二人の名が書かれている理由です。 後世の人間は「へー、そうなんだ」で終了出来ますが、大きすぎる李世民の功績は、誕生間もない唐王朝に暗い影を落とすことになります。 なぜなら、長安にずっと留まっていて武勲のほとんど無い皇太子李建成からみれば、ずば抜けて武勲の大きい弟秦王李世民の存在は、大きな不安要素でした。 弟の方は、戦乱が終わると軍から退いて、兄の次期皇帝を支持する態度を見せていましたが、宮廷の廷臣たち、重臣や唐軍の将帥たちのほとんどが李世民に心服しており、もし弟が帝位への野心を持った場合、みな弟になびく可能性が十分ありました。 また弟の部下たちが、「功績に比して秦王殿下への褒賞が小さい」と不満の声を上げている事も、建成の苛立ちを大きくしました。 父高祖はどう考えていたかというと、武勲の差はあってもそれは立場の違いであり(父帝が急死した際など、不測の事態に政務を取り仕切る必要から、建成は常に父のそばに控えている必要がありました)、長男と次男の間に器量の差はないと考えていたようです。 しかし一方で、武勲の多い次男とその部下たちを宥める必要から、高祖は秦王に色々な称号や地位、宮殿を与えるなど破格の対応をしていました。 父帝は両者のバランスを取っているつもりでしたが、そう思っていたのは高祖だけでした。 さらに皇太子の不安につけ込み、毒を吹き込み続けた人物がいました。高祖の四男で、皇太子と秦王の同母弟斉王李元吉(り げんきつ)でした。 優秀な兄二人に対して、元吉は素行が悪い人物でした。武辺者で軍功もたてていますが、諫言した乳母を殺害したり、狩りの際に田畑を荒らして農民を平気で踏み殺したりと、問題行動の方が多くて、父高祖や生母の竇夫人(とう)から疎まれていました。 元吉は、「秦王は帝位を狙っており、皇上(父高祖)に取り入って皇太子を貶めている」と、ことあるごとに吹き込んだのです。疑心暗鬼に陥った建成は、次第に世民と反目するようになりました。 何故元吉がそんな事をしたかと言えば、兄二人を共倒れさせるためでした。そうすれば次の皇帝の座は、自分に回って来ると打算していたのです。 皇太子と秦王の関係は、次第に抜き差しならぬものとなっていきましたが、父高祖は相変わらず主導的な役割をまったく果たせませんでした。 父からすれば、建成も世民も(ついでに元吉も)可愛い息子であり、排除するような事をしたくなかったのです。彼はどっちつかずの姿勢に終始して、現実から目を背け続けました。 普段は積極果断の李世民も、この問題には優柔不断だったと伝えられています。関係が悪くなる前、建成と世民はとても仲が良かったのです。彼は兄との和解を望んでいました。 しかし破局の時はやってきました。 いっこうに動かない建成(兄もまた、弟を殺すことを躊躇っていました)にしびれを切らした元吉は、建成の名を騙って刺客を集め、世民を襲わせました。 しかしこの企ては、襲撃を警戒していた秦王側近長孫無忌(ちょうそん むき。世民の幼なじみで親友、義兄(彼の妹が世民の正妻、のちの長孫皇后)にあたります)によって阻まれ、陰謀が露見することを恐れた元吉は、「秦王が謀反のため兵を集めている。今すぐ皇上に誅殺を上奏すべき」と説得したので、とうとう兄も弟を殺す決意をしました。 翌日早朝、宮中に参内するため、玄武門にやってきた皇太子と斉王の一党は、突如城門に現れた秦王の手勢から襲撃を受けました。二人の動きは、内通者によって世民に伝わっていたのです(この期におよんでも、兄と話し合いをしたいと決断を躊躇う世民に、長孫無忌と参謀の房玄齢(ぼう げんれい)が、「殿下は我らが処刑場に引かれるのを見たいと仰せか?」と迫り、ようやく承知したと伝えられています)。 建成は世民自身の手によって射殺され、逃亡した元吉は、世民が差し向けた追っ手の尉遅敬徳(うち けいとく。李世民配下で1,2を争う猛将。五月人形などで日本で売られている鍾馗様の像の元のモチーフになっているのが彼です。ちなみに敬徳は字で諱は恭。字の方が有名です)に討たれました。これを玄武門の変と言います。 父帝は、すべてが終わってから事件のあらましを知りました。 「謀反人を成敗致しました」とのみ答えて跪く世民に、高祖は「すまぬ、そなたには苦労をかけたな」と息子の背中をさすったと伝えられています。 この騒動の責任を取る形で、高祖は世民に譲位しました。そして唐の太宗(位626~649年)の治世が始まることになります。
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