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カテゴリ:西暦535年の大噴火
玄武門の変の後、李世民(唐の太宗。他の「太宗」と区別するため、「唐宗」とも呼ばれています)は皇帝に即位しました。 彼の治世は、「貞観の治」と呼ばれる唐の安定期の1つであり、唐の太宗は中国歴代皇帝たちの中でも、五指に入る名君と評価されています(私個人の評価では、3本の指の中に入ります。そこから先はその日の気分で順位が変わります・笑)。 太宗はまず、兄建成や弟元吉の配下にあった者たちに恩赦を下しました。これは当時異例なことでした。 前に魏晋南北朝時代の話をしましたが、この頃の中国では、敵対した者は、一族郎党、例え血を分けた兄弟・親族であろうと、赤子に至るまで皆殺しが慣習でした。 父高祖も隋の皇族や敵対者に同じ事をしましたが、太宗はその血塗られた慣習を踏襲しませんでした(兄を殺し、また兄の子を死なせて(太宗は当初、建成の子たちを助命する意向を示していましたが、後難を恐れた義兄の長孫無忌(ちょうそん むき)の策略で、甥たちは殺されてしまいました)、帝位に就いた事に対する罪滅ぼしだと、指摘する歴史家もいます)。 その結果、優秀な人材が太宗の元に集まりました。特に後世、太宗を支えた諫言の士として知られる魏徴(ぎ ちょう。字は玄成)は元々兄建成の側近で、太宗を早くから排除することを主張していた人物でした。そういう者を許して登用したのです。 太宗が即位した時、唐の人口は約1500万人でした。30年前の隋の文帝の「開皇の治」時代が約4500万人でしたから、隋末唐初の戦乱が、どれほどのダメージを中国に与えていたかが察せられます。 太宗は、ひたすら民の負担軽減と、国力の回復に専念しました。 太宗の政治姿勢を知りたければ、『貞観政要』という本を読んでみることをお勧めします。 『貞観政要』は太宗と臣下の者たち(特に出番が多いのが、皇帝の諫め役だった魏徴です)との対話集で、政治家を志す方は絶対に読んだ方が良い一冊です。 この本を座右に置いた人物として、日本では徳川家康がいます。家康の政治姿勢を見ると、かなり太宗の影響を受けていることが見て取れます。 話を元に戻します。 太宗の政策は多くが成功しました。唐王朝300年の基礎は、彼によって作られたと言って過言ではありません。唐の全盛期は太宗の曾孫の玄宗(位712~756年)の「開元の治」であり繁栄の度合いこそ及ばないものの、戦乱から太平の世への脱皮となった「貞観の治」の功績はすこぶる大きいものでした。 『旧唐書』は「(泥棒がいなくなったため)家々は戸締りをしなくてもよくなり、(旅先でも安心して食料が手に入るため)旅人は旅に食料を持たなくてよかった」と、この時代を礼賛しています。 一方で2つ上手くいかなかったことがあります。 1つは後継者問題です。 太宗は、正妻長孫皇后(死後は文徳皇后と諡されています。太宗が中国歴代皇帝中五指に入る名君なら、彼女は五指に入る名皇后でした。夫婦仲もよく、三男四女に恵まれましたが、34歳の若さで急逝しました。彼女の没後太宗は皇后は立てることはなく(愛妾は大勢いましたが)、後年息子の問題が出ると、彼女の廟の前で一日中物思いにふけることが多かったと伝えられています)との間に3人の男子をもうけましたが、自分に気性のよく似た次男(長孫皇后の生んだ順番上の次男です。太宗の子全体で言うと四男です)魏王李泰(り たい)を特に可愛がったため、長男で皇太子の李承乾(り しょうけん)との関係が悪化しました。 皇太子は精神を病み廃嫡されましたが、その大きな原因が、魏王の兄追い落としの陰謀だった事が露見したため次男も追放され、三男(全体の子としては九男)の晋王李治(り ち。後の第3代皇帝高宗。位649~683年)を皇太子にします。 つまるところ、父高祖が味わった息子たちを失う悲哀を、形を変えて太宗も味わう羽目になったのです。 太宗は皇太子となった李治を、全身全霊をかけて教育しますが(有名な逸話として、太宗と李治が舟遊びをした際、太宗は息子に「君主は舟であり、民衆は水である。水はよく舟を浮かべるが、水の流れに逆らえば舟は覆る。政治とは、船頭が舟を操るがごとく、民衆に気持ちに沿わねばならない」と諭したという話が伝わっています)、李治は父より祖父に似て、お人好しで優柔不断のきらいがあり、後に彼の皇后となる則天武后(そくてんぶこう。中国史上唯一の女帝武則天(ぶそくてん))によって、唐朝は壟断される悲運に見舞われることになります。 もう1つは対外戦争です。 日本とは異なり、地続きの中国は、どうしても戦争は避けられません。 太宗の時代、唐に敵対してきたのは、北の突厥(とっけつ)、西の吐谷渾(とよくこん。現在の中国青海省にあった鮮卑族(せんぴ)の一派がたてた国)、そして高句麗でした。 隋末唐初の戦乱に乗じた突厥は、たびたび北の国境を侵してきました。 この頃突厥で実権を握っていたのは、隋の文帝の娘で突厥の可汗に嫁いでいた義成公主でした。彼女は隋に背いた唐を恨んでおり、その主導で突厥は唐に対して軍事的な挑発を繰り返し、唐の東西交易は遮断されていました。 太宗は秦王時代の軍師であり名将の衛国公李靖(り せい)を登用して討伐に当たらせました(またまた話がずれますが、太宗と李靖の対話を記録した『李衛公問対』という軍学書があり、『孫子』『呉子』等と合わせて、中国では武経七書の一つとされています)。 629年、出陣した李靖は突厥軍を完膚なきまでに破り、頡利可汗(いりぐ かがん)を捕らえ、義成公主を処刑して突厥を滅亡に追いやります(この際、煬帝の正妻蕭皇后と楊政道(よう せいどう)は李靖に保護されました。李靖は二人を唐で暮らせるよう太宗に上奏し、太宗は蕭皇后に隠居料を下賜し、楊政道には官職を与えて迎えています)。 次いで634年に吐谷渾が唐に背くと、太宗は再び李靖を討伐に派遣して鎮圧させました。 これにより、唐の北部と西部国境は安定し、東西交易が再び活発化していきます。『西遊記』で三蔵法師のモデルになった玄奘法師(げんじょう)が、天竺(インド)まで仏教の経典を取りに行くのは、この太宗の時代のことです。 さしあたっての脅威は去り、高句麗問題だけ残りました。 隋が滅びると、高句麗はぎこちないながらも唐と国交を結んでいました。 高句麗の栄留王(えいりゅうおう。前王嬰陽王(えいようおう)の異母弟)は長安にすすんで人質を送り、隋の侵略を招いた兄嬰陽王と同じ轍を踏むまいと心を配っていました。 一方の太宗も、高句麗は鬼門(文字通り、唐から見て鬼門方向にありますし)と見て、戦争をする考えは持っていなかったようです。 しかし、高句麗が対隋戦勝記念塚を作り、戦死した隋兵の遺体や遺骨を晒し物にしていることを知ると、にわかに不快に感じて遺骨返還を求めました。 太宗から見れば、遠く高句麗で命を落とした隋兵たちは、煬帝の暴虐の犠牲者であり、丁重に埋葬されるべきものでした。それを晒し物にするなど、人倫に劣る言語道断の話でした。 栄留王は太宗の要求を当然と考え要求に応じますが、それが国内の対唐強硬派の怒りを買いました。 強硬派からみると、記念塚で晒しものにしている隋兵の遺体は、中国の侵略に対する高句麗の輝かしい勝利の証でした。 侵略者の遺体をさらし者にして何が悪い。これは勝利者である高句麗の当然の権利である。栄留王は、高句麗の輝かしい勝利の歴史を捨て、再び中国と従属関係に戻す裏切り者だととらえました。 強硬派の筆頭淵蓋蘇文(よん げそむん)が640年にクーデターを起こし、栄留王ら親唐派の王族・貴族を捕らえられて処刑すると、驚いた太宗は高句麗討伐を決断します。 再び高句麗を発端として、唐、朝鮮半島、日本は、激動の時代へと向かっていくことになります(日本の話はまだ触れませんが・汗)。
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