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カテゴリ:西暦535年の大噴火
唐の太宗による高句麗遠征は、644年から645年にかけておこなわれました。 この出兵は、名君として誉れ高い太宗の治世の中で、ほとんど唯一かつ最大の失敗であり、あわや隋の煬帝と同じ轍を踏みかけた危うい事例として知られています。 自制心が強く、内政でも外交でもめざましい業績をたててきた太宗が、なぜ安易に高句麗との戦争に踏み切ったのか、明確な理由はわかりません。 恐らく、対唐強硬派の台頭は唐の安全保障の脅威になる事、親唐派の王を殺害した者を放置することは、唐朝の威信を傷つけるものであった事が理由なのでしょうが、衛国公李靖(り せい)や宰相房玄齢(ぼう げんれい)等、重臣一同の反対を押し切っての強行は、およそ太宗らしくない行動でした(李靖は「玄成(諫言の士魏徴(ぎ ちょう)の字。魏徴は643年に死去しました)が生きていたら、止められただろう」と嘆いています)。 太宗は自ら17万の大軍を率いて親征しました。 遠征は遼東城攻略など一定の戦果は上げたものの、高句麗を屈服させることは出来ず、唐軍は撤兵しました(太宗も失敗に懲りたようで、2度目の遠征は実施しませんでした)。 その後649年に太宗が崩御(享年51歳。死因は不明ですが、晩年痛風に悩み、しばしば意識を失う症状があったようです)したため、一端戦争は下火になりましたが、唐側は常勝不敗の太宗の名誉が傷をつけられたことに怒り、高句麗側は対唐強硬派の淵蓋蘇文(よん げそむん)が実権を握って戦争継続を主導したため、20年にわたって両国の戦争が続くことになります。 唐と高句麗の戦争は、朝鮮半島情勢を再び大きく動かしました。 この頃、新羅でも親唐派と反唐派に別れて争っていましたが、皇族の有力者金春秋(後の武烈王。位654~661年)は親唐派の真徳女王(位647~654年)を奉じて、国内を親唐路線にまとめ上げました。 春秋は唐の心証を良くするため、衣服や官位、年号などを唐と同じに改め、高句麗との戦争にも積極的に加わるなど、様々な手を使って唐に接近を試みています。 一方の百済も、唐への朝貢を欠かしませんでしたが、新羅に対して後れを取っていることに焦りを覚えていました。 両国の国力は100年前と逆転しており、百済は朝鮮半島南西部に押し込められていました。 国境を接するのは新羅一国となっており、唐に協力して対高句麗戦に参加する事は出来ません。 また百済の朝廷では、高句麗よりも百済から多くの領土を奪った新羅への憎しみの方が強くなっており、その事が外交の大転換へと繋がりました。百済の義慈王(位641~660年)は、長年の敵だった高句麗と同盟に踏み切ったのです(麗済同盟)。 高句麗側も唐と結んだ新羅の侵略に手を焼いており、これを牽制することが出来る百済との同盟に大いに喜びました。新羅が敵という点で両国の利害は一致していたのです。 もちろん百済は高句麗とは異なり、唐と敵対する気はありません。敵はあくまで新羅のみです。 しかし唐と敵対する高句麗と同盟することが、どれほど軽率で危険な行動であるかを、百済は理解していませんでした(ただしこの時点では、唐は百済を見限っていません)。 こうして唐は高句麗と戦い、高句麗は唐と新羅と戦い、新羅は高句麗と百済と戦い、百済は新羅と戦う、いびつな図式になりました。 唐が高句麗との戦争に消極的なのを見た淵蓋蘇文は、攻撃の主軸を新羅に定め、百済と協調して、新羅に大攻勢をかけました。 めざましい戦果を上げたのは百済軍で、新羅軍を破り30を超す城を奪還して、過去100年間に奪われた領土の大半を取り戻し、苦境に陥った新羅は唐に助けを求めました。 この頃、唐では大きな政治変動が起きていました。 太宗の後を継いで即位した高宗は、父よりも祖父高祖に似て慎重な人柄だったため、高句麗との戦争に消極的でした。 さらに彼の関心は、父太宗の寵妃の一人、武照(則天皇后)を妻にする事に夢中で(父帝の寵妃を妻にすることは、儒教倫理的にはなはだ問題があるため、高宗の伯父長孫無忌をはじめ、重臣一同が大反対していました)、それ以外のことに関心ありませんでした。 結局、重臣たちの反対を押し切って、高宗は武照を妻にしますが(以後は則天武后と書きます)、中国史上唯一の女帝となる則天武后(女帝としては武則天と呼ばれます)は、野心だけでなく才知にも長けており、気の弱い高宗は、次第に彼女に操られていくようになります。 彼女は結婚に反対した唐の重臣たちを次々と追放・粛清し、建国以来の功臣でもある長孫無忌も自殺に追いやりました(659年)。 そして自らの立場を盤石にするため、華々しい対外戦争の勝利という装飾を望むようになりました。 高宗が百済と新羅に対して従来の唐の立場を崩さず、対立する両国に、有効な打開策を示せなかったのに対して、武断的な則天武后は「天子(唐の皇帝)の詔勅に従わぬ百済は逆賊」「天朝(唐)の敵高句麗と結ぶ百済は敵」と単純な図式に考えており、戦争に積極的でした。 高宗は必ずしも則天武后に同調していませんでしたが、そんな中、致命的な自爆をしたのが百済の義慈王でした。 勝利に驕った彼は、新羅との講和を求める唐の使者を追い返したため、非礼に怒った高宗は、則天皇后の考えに同調して、百済を敵視するようになってしまったのです。 百済も敵になったことで、唐の対高句麗戦争の戦略は大きく転換しました。 この頃唐では、高句麗と戦い続けることに手詰まり感が強くありました。 当時高句麗領だった遼寧省や吉林省は、地形も険しく道路事情も悪いので、大軍を送り込んでも上手く軍を展開させられません。加えて高句麗側は唐軍の侵攻ルートがわかっているので、自国の村を焼き払ってゲリラ戦を展開し、かなわないとみればさらに領内深くに退却するため、唐軍は労多くて功少ない戦いを強いられていました。 しかし百済が敵になったことで状況は変わりました。今まで唐は友好国百済の立場を尊重して、軍を駐留させたりしませんでしたが、敵国である以上、百済を滅ぼす事に何の問題もありません。 加えて高句麗の首都平壌は百済から近いので、占領した百済領を策源地として、南から攻撃することが出来ます。百済が敵になったことで、唐は逆に高句麗を攻めやすくなったのです。 660年、高宗(実際の采配は則天武后)は将軍蘇定方(そ ていほう)を総大将に、13万の大軍を海路百済に侵攻させました。 武烈王の新羅軍5万と対峙していた百済軍は、この背後からの予期せぬ一撃を受けて大敗し、義慈王は降伏、660年7月、あっけなく百済は滅びました。 百済領を制圧した唐軍は、南から高句麗の首都平壌を突きました。 淵蓋蘇文は、蛇水の戦いでかろうじて唐軍を破って進撃を阻止したものの、朝鮮半島の均衡は大きく崩れました。 状況を立て直せぬまま665年に淵蓋蘇文が病死すると、彼の息子たちは後継を巡って内輪もめし高句麗は分裂しました。そして3年後、唐軍の侵攻で高句麗は滅びました。 次回からは視点を日本に移して、見てみたいと思います。
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