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カテゴリ:西暦535年の大噴火
それでは今回から視点を変えて、7世紀頃の日本の対応を見ていきたいと思います。 中国で話が長くなりすぎているので(汗)、主に外交政策から見える傾向を中心にして、なるべく話を長くならないよう頑張ってみたいと思います(多汗)。 前に触れた聖徳太子の外交政策を、もう一段深く掘り下げてみたいと思います。 聖徳太子は隋に遣隋使をおくり、日本と隋との国交正常化に尽力しました。 教科書では、中国の進んだ文明や技術を日本に導入するためとしか触れていませんが、実はもう一つ理由がありました。 これは教科書では触れられない話です。 聖徳太子が政務を取り仕切っていた頃、日本は任那の拠点を失って朝鮮半島の権益を失っていました。太子は武力では無く外交でそれを挽回するため、隋と国交を樹立する道を選択したのです。 なぜ隋と国交を結ぶことが、日本の権益確保に繋がるかというと、当時朝鮮半島は3つの国に別れ、単独で日本に対抗出来る国力を持つ国が、高句麗だけという事を考えれば理解できます。 日本と隋の親密化(遣隋使は、貢ぎ物を持って行かなかったのに隋に優遇されたので、3国にとってその衝撃は大きかったようです)は、日本より国力の小さい百済や新羅にとって脅威でした。もし日本と隋が連携して圧力をかけてきたら、百済も新羅も屈服するしか道は無いのです。 遣隋使派遣の効果は覿面でした。百済、新羅だけで無く高句麗までも日本に人質を送り、貢ぎ物を献上して、日本が求める製鉄技術や資源などを競って提供するようになりました。 このように、遣隋使には、国際関係を見据えたしたたかな外交戦略の一面があったのです。 日本の遣隋使派遣は計5回、614年で終了しました。これは中国が隋末唐初の戦乱で、使者の安全や目的が達成出来ないと判断されるからです。 その後唐朝が興り、日本も遣唐使を派遣するわけですが、その時期は朝鮮半島諸国より遅い630年になってからです(日本は舒明天皇、唐は太宗皇帝の御代)。 これは、聖徳太子(622年没)、蘇我馬子(626年没)、推古天皇(628年没)と、朝廷の要人が相次いで世を去って政局が混乱していたため、使者を送れなかったようです。 しかも第1回の遣唐使は失敗に終わりました。 遣唐使の答礼で、太宗は高表仁を日本に派遣していますが、そこで問題が起きたようで(理由は不明です。『旧唐書』は倭の王子、『新唐書』では倭の王と高表仁が言い争いになったと書かれていますが、日本側に記録されていません。しかしこの後10年以上遣唐使の話が沙汰止みになっていることから、日本側も唐の反応に強い不満があったようです)、太宗の親書は、日本に渡されること無く使者は唐に帰ってしまいます。 隋の時代の親密さとは真逆の冷淡な関係から、日本と唐はスタートしました。 しかし朝鮮半島諸国の日本への対応は変わっていません。恐らく中国との関係を抜きにしても、日本の国力は脅威であり、機嫌を損ねたくなかったのでしょう。 例えば647年には、新羅から金春秋(後の武烈王)が朝貢使として来日し、孝徳天皇(位645~654年)に謁見しています。次期国王候補を日本への朝貢使にするほど、関係を重要視していた事が見て取れます。 さて、日本の朝廷で再び遣唐使派遣の議がのぼるのは、640年代になってから、大臣蘇我入鹿によってです。 蘇我入鹿というと、上宮王家(聖徳太子の子、山背大兄王の一族)を滅亡に追いやり、天皇家に取って代わろうとしたという悪役な面が強調される人物ですが、ここでは深く触れません。あくまで彼の考えていたと思われる外交政策を中心に、見てみたいと思います。 入鹿は、遣隋使として隋に留学して学問を収めて帰国した学僧旻(みん。中国系の渡来人と言われています)の一番弟子でした。旻は当時、日本で最も学識があると言われていた人物です。 入鹿は彼を通じて、国際情勢に理解を深めたと思われます。 一方彼の父蝦夷は遣唐使には消極的で、来日した百済や新羅、高句麗の要人に、唐の軍事力についてよく尋ねていたと言うことから、唐の日本侵攻を警戒していたと考えられています(そのため彼が大臣だった時代、一度も遣唐使派遣を許しませんでした)。 しかし入鹿は、父とは逆に、唐との関係改善をはかる事が、混迷する朝鮮半島情勢への深入りを回避しつつ、日本の権益を守ることが出来ると考えたようです。 入鹿は当時の朝廷で、聖徳太子の外交政策を理解できていた数少ない人間だったと言えそうです。 もちろん、従来言われている天皇家を簒奪しようとしていたという話を出すなら、唐の権威を利用して、天皇家に取って代わろうとしていたのかもしれません。 しかし入鹿の構想は、皇族や他の豪族から同意を得られませんでした。 上宮王家を滅ぼして以来、皇極天皇(位642~645年。のちに重祚し、斉明天皇となります。位655~661年)以外の皇族とは疎遠で、彼女以外に入鹿の支持者はいませんでした(上宮王家を滅ぼした理由は、従来の説では蘇我氏が支援する古人大兄皇子を天皇にするため、有力対抗馬だった山背大兄王を排除したと言われていますが、視点を変えれば、上宮王家は皇極天皇の皇統にとっても脅威な存在であり、上宮王家を滅ぼす事で、皇極天皇の権力基盤は強化された一面があります。そう考えると、親族を滅ぼされたにもかかわらず、皇極天皇の入鹿への絶大な信頼が変わらなかった理由は合理性があります。一方上宮王家を滅ぼした事は、蘇我氏内部でも異論があり、父蝦夷は「身を危うくする」と嘆いています)。 また他の豪族たちも、朝廷内の権勢を独占する蘇我氏主導の遣唐使を許せば、さらにその専横をまねくと消極的でした。 さらにもうひとつ、入鹿の構想を不都合に思う勢力がありました。朝鮮半島の三国です。 彼らは日本と唐が親密化することを嫌いました(理由は隋の時と同じです)。 この頃、人質に日本に来ている三国の王子や重臣の子弟たちを中心に、朝廷内には派閥が出来ていました(特に有力だったのは日本と交流が深かった百済派です)。 三国の子弟たちは、日本の朝廷に仕えたり、学問を学んだりと(例えば百済の義慈王の息子で人質とした滞在していた豊璋は、入鹿と同じく旻に学んでいます)、それぞれの生活を送っていました。 彼らは人質である一方、自国の外交官の役割も担っていますから、皇族や有力豪族たちと親交を結び、金品を送るなどして、盛んに自国への引き入れ工作をおこなっていました。 特にこの100年衰退著しく、日本の支援を囲い込んでおきたい百済にとって、日本と唐の接近は、是が非にも阻止したい話であったと考えられます。 こうして乙巳の変へと進んでいくことになります。
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