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カテゴリ:西暦535年の大噴火
さて、前回から再び書き始めた日本の話は、主に外交の視点から事情を見ていますので、日本史の教科書などから大きく離れている点があると思います。それをまずご理解、ご注意いただければ幸いです。 645年6月、三韓(高句麗、百済、新羅のこと)から貢ぎ物が届いたとの知らせを受け、蘇我入鹿は宮中大極殿に参内しました。 そこで中大兄皇子(皇極天皇の息子。後の天智天皇)、中臣鎌足らに斬りつけられ、暗殺されました。世に言う乙巳の変です(「大化の改新」の方がなじみありますが、この呼び方は広義的には入鹿暗殺後の朝廷の改革全体をさすので、入鹿暗殺は「乙巳の変」と呼ぶのが正確です)。 参内した際に、剣を取り上げられていた入鹿は抵抗できず、皇極天皇の面前で、冤罪を叫びながら斬殺されました。 翌日には中大兄皇子を大将とする討伐軍が蘇我邸を包囲し、入鹿の父蝦夷も自害して、蘇我宗家は滅びました。 教科書でも大きく取り上げられ、知名度の高い乙巳の変ですが、実は多くの謎をもったミステリアスな事件です。 例えばクーデターを実行した中大兄皇子ですが、彼と母皇極天皇の後ろ盾になっていたのは蘇我入鹿でした。なぜ恩人である入鹿を裏切ったのかが不明なのです。 その上、従来の「蘇我氏が天皇家を簒奪しようとしたため、それを阻止しようと中大兄皇子と中臣鎌足が、暗殺を実行した」説が正しかったとすると、功労者である彼が、何故この後20年以上天皇になれなかったのか、その理由も不明です(『日本書紀』では、乙巳の変の後、「天皇に推挙されたけど断った」という流れになっていますが、恐らく形式だけのもので最初から天皇になる序列から、外されていたと見られています)。 現在、中大兄皇子は実行犯に過ぎず、この後即位した軽皇子(孝徳天皇。位645~654年)が、本当の首謀者なのではとする説も出ています。 というのも、中大兄皇子と鎌足以外のクーデター賛同者をみると、蘇我石川麻呂(入鹿の従兄弟で蘇我氏庶流)や阿部内麻呂など朝廷の重鎮がいますが、彼らは軽皇子と関わりが深い人物です(ただ石川麻呂は、乙巳の変の少し前に、軽皇子の仲介で娘を中大兄皇子に嫁がせて、急に関係が深くなっています)。 しかし軽皇子が首謀者であったとしても謎が残ります。というのも動機がないのです。 彼は特に入鹿と関係は悪くなく、利害の対立も無かったようで、本当に入鹿暗殺を主導したのか不明です。特に即位後は、遣唐使派遣など、入鹿の政策をほぼ踏襲しているのも不可解です。 そこで今回注目するのが、前回ちらっと触れた朝鮮半島三国(特に百済)の政治的な影響力についてです。 入鹿の主導する日本と唐の国交正常化案は、日本を唐から切り離しておきたい朝鮮三国側からすれば、余計な政策以外の何ものでもありませんでした。 妨害工作がおこなわれた証拠や、どの程度の影響力を持っていたかを歴史史料から見つけることは難しいですが、彼らが乙巳の変を引き起こしたとする考えが当時からあった事は、わずかながら記録に残されています。 「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣(韓人が鞍作(入鹿)を殺した。私の心は痛い)」 この言葉は、蘇我入鹿に次期天皇候補として遇されていたとされる古人大兄皇子(舒明天皇の第一皇子で、中大兄皇子の異母兄)が、入鹿暗殺を知った際に口にした言葉です。 韓人とは朝鮮半島の人という意味です。曖昧な言い方ですが、恐らく古人大兄皇子の脳裏にあったのは、百済人だったと思われます(この後触れていきますが、中大兄皇子は当時の朝廷内で新百済派筆頭で、考徳天皇も百済の影響を強く受けた人物でした)。 さらに暗殺の場が、朝鮮半島からの朝貢の場である事も、意味深と言えそうです。 実はこの時、本当に三韓からの貢ぎ物が届いていたのかわかっていないのです(『大織冠伝』では、三韓の使者来日の報は、入鹿をおびき寄せる偽りであったとされています)。 この辺の話は史料が少なく、推測ばかりになってしまうのですが、百済(もしくは親百済派)による、ヤマト政権への影響力については、古代日本史の研究を進める方法の1つとして注目していいように考えています。 では、蘇我入鹿暗殺後の日本外交がどのようになったかを、親百済という視点に注意しながら見てみたいと思います。 乙巳の変後、皇極天皇の譲位によって即位した孝徳天皇は、都を難波(現在の大阪市中央区あたり)に遷都しました。 前述のように、考徳天皇は蘇我入鹿が提唱した遣唐使派遣を推し進め、朝廷内でも蘇我氏系の豪族たちを引き続き重用しています。 つまり入鹿は殺したものの、その政治路線は引き継ぐし、蘇我氏も政権内に留めたのです。 これを宗家が滅んだとはいえ、いまだ蘇我氏の力が強かったとみるか、別の理由があるかは不明です。 乙巳の変後、考徳天皇と立太子(中大兄皇子)は深刻な対立関係に陥ります。 それも従来の説だと事情がまったく見えてこないので、教科書などでは無視されていますが、親百済政策という視点から見ると、スポンサーの意向に忠実な中大兄皇子と、スポンサーの意向から軌道修正して、入鹿路線を引き継いだ考徳天皇との対立構造とみることが出来ます。 あと教科書だと、中大兄皇子の功績のようなニュアンスで触れられる事が多い、大化の改新の公地公民政策や税制改革、朝廷の組織改革も、実際に手をつけたのは考徳天皇だったりします(もちろん、中大兄皇子も深く関わっていますが)。 この時期、中大兄皇子が主導した事柄を見ると、異母兄古人大兄皇子や、義父蘇我石川麻呂を謀反の罪で自害に追い込むなど(両者とも、すぐに冤罪とわかるでっち上げの罪状でした)、黒い仕事ばかり目につきます。 特に右大臣石川麻呂の死は、考徳天皇の政策に大きな悪影響となり、大化の改新が不十分に終わる原因になります。つまり中大兄皇子がやっていたことは、全体的に孝徳天皇の足を引っ張る事だったと言えます。 両者の対立がピークに達したのは653年のことです。この年孝徳天皇は、中大兄皇子の反対を押し切って第2回遣唐使を派遣しました。 怒った中大兄は飛鳥への遷都を要求しました。孝徳天皇が拒否すると、彼は母宝皇女(皇極天皇)や、皇弟大海人皇子、朝廷の官吏たちを強引に引き連れて、飛鳥を去りました。 これは事実上のクーデターでした。 片腕だった石川麻呂は亡く、乙巳の変の実行犯である中大兄の勢いに飲まれたのか、それともあらかじめ周到な朝廷工作がおこなわれた結果なのか、誰も孝徳天皇に従わず、天皇は翌654年に失意の内に病死して、宝皇女が重祚(一度退位・譲位した君主が、また元の地位に返り咲くこと)して天皇となりました(斉明天皇)。 母の即位により、朝廷の全権を握った中大兄皇子による、親百済政策が始まることになります。
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