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カテゴリ:西暦535年の大噴火
655年、斉明天皇が即位し、政治の実権は皇太子中大兄皇子が握りました。 この頃、考徳天皇が死の直前に派遣した第3回遣唐使が帰国し、唐からも答礼使が来日しました。 中大兄皇子は唐使と謁見し、表向きは考徳天皇時代からの、唐との関係正常化路線に変更が無いよう振る舞いますが、謁見の席に、唐と関係が微妙になっている百済の王子豊璋を同席させるなど(当時日本にいた高句麗や新羅の王子は同席を許されていません)、実質的には唐よりも、百済との関係を重要視していることをアピールしました。 日本側の反応は当然唐本国にも伝わり、両国の関係は微妙になりました。 このように見ていると、中大兄皇子は大国唐を敵に回す「危険な遊び」をしているように見えますが、別に彼は唐と戦争したかったわけでは無かったと思われます。 恐らく彼は、日本が百済に対して、強い影響力があることを誇示して、唐の朝鮮半島への影響力が拡大するのを牽制しながら、日本の権益を確保するという考えを持っていたのだと思われます。 唐使をあしらった中大兄皇子は、この後自身が天皇になるため、対抗勢力の排除に乗り出します。 スケープゴートにされたのは、孝徳天皇の一人息子で従弟の有馬皇子でした。 考徳天皇が崩御した時、彼はまだ15歳と年若く、立太子(皇太子)は中大兄皇子でしたので、普通に考えれば中大兄皇子が次の天皇に即位するはずでした。 しかし、結果は中大兄皇子の母で、有間皇子の叔母である宝皇女が、斉明天皇として重祚しました。 これは考徳天皇を憤死させた中大兄皇子への、他の皇族や豪族たちの反発が強かったためと考えられています(ただし斉明天皇即位により、血縁上は有間皇子より、中大兄皇子の方が次の皇位を継承しやすくなったので、斉明天皇重祚は、彼主導の計画的なものだった可能性もあります)。 考徳天皇の無残な最後から、有間皇子に同情、もしくは肩入れする皇族、豪族たちは潜在的に多かったようで、中大兄皇子への反対勢力の旗頭は有馬皇子になりました。 しかし権謀術数に長けた中大兄皇子に、正面切って反抗することは若い彼には無理でした。 有間皇子もよく理解していたようで、病を理由に湯治で飛鳥を離れるなど、権力中枢から距離をとって、身辺に気を遣っていました。 しかし658年12月、斉明天皇と中大兄皇子が休養のため飛鳥を離れたため、有間皇子は飛鳥に残留せざるを得なくなりました。この時彼に、蘇我赤兄が接近してきました。 赤兄は斉明天皇と中大兄皇子の政治を盛んに批判し、思わず有間が同意すると、赤兄は中大兄皇子に、「有間皇子が謀反を企んでいる」と密告しました。 蘇我赤兄は初めから中大兄皇子の意を受けて、有間皇子を陥れるために接近していたのです(石川麻呂の失脚後、蘇我氏は朝廷から排除されていました。有間皇子の変後、再び蘇我氏は復権していますから、事情を推察できそうです)。 有間皇子は捕縛され、中大兄皇子の前に引き立てられました。 中大兄皇子は、「謀反の企てを認めるなら、其方の身だけは助けてやろう」と持ちかけました。 反中大兄派の豪族たちを排除出来るなら、今後有間皇子に味方する豪族たちはいなくなりますから、生かしておいても害にはなりません。「謀反の企て」が発覚した以上、どちらに転んでも、中大兄皇子にとって損はないのです。 しかし薄幸な皇子は、「天與赤兄知。吾全不知(全ては天と赤兄だけが知っている。私は何も知らない)」と答えました。一見するとわかりにくいですが、これは中大兄皇子に対する痛烈な批判でした。 「自分が謀反など企んでいないのは、天の神々も(偽りの密告をした)赤兄も知っていることではないか。あなたもご存じのことだろう。身に覚えのない罪を認めたりしない。あなたは後世に悪名を残すがいい」 そう言っているのです。 激怒した中大兄皇子は、すぐさま有間皇子を絞首刑に処しました(皇族を処刑する際の格式を無視した、無残な死刑だったと言われています)。有馬皇子は19年の短い生涯を閉じました。 処刑を知った斉明天皇は、連座した豪族たちの多くに死一等を減じました。でっち上げ同然の罪で命を落とすのは、甥一人で十分と思ったのか、我が子中大兄皇子の強引な手段に不信感を持ったのかも知れません。 この後母子の仲は、徐々に歯車がかみ合わなくなっていきます(この件で、弟の大海人皇子とも関係が悪くなります。その意味では、中大兄皇子にとって、後日に悪影響ばかり出る行為だったと言えそうです)。 計算違いはあったものの、対抗勢力を潰して己の権力を強化した中大兄皇子ですが、国際情勢の激変の翻弄されることになります。 659年、第4回遣唐使が派遣されました。 これは戦争が激しくなっている朝鮮半島情勢に対して、唐がどのような対応を講じているかを探る意味合いのものでしたが、唐側はその意図を見抜いており、遣唐使一行は、丁重な扱いながらも、唐の都長安に軟禁状態に置かれました。 この時、海岸地域には唐の百済遠征のための船団や軍の集結が進んでおり、百済と親密な日本使節に、侵攻軍の陣容を見せるわけにも、気取られるわけにいかなかったからです(使節は、百済が滅んだ翌661年日本への帰国を許されます)。 こうして日本がまったく気がつかないまま、唐の百済侵攻が開始され、百済は滅びました。 知らせを聞いた中大兄皇子は、ただちに軍の動員と編成を命じました。 百済滅亡により、日本は朝鮮半島の権益は唐に奪われました。これは親百済王政策を推し進めてきた彼にとって、致命傷に近い政治的な大失点でした。 手をこまねいていれば、手の届くところまで来たはずの天皇の座が遠のくだけで無く、彼自身が暗殺される可能性すらありえました。挽回するには武力介入しかありません。 都合が良いことに、祖国の滅亡を聞いた百済の王子豊璋は、斉明天皇と中大兄皇子に、百済再興のために軍事支援を嘆願しており、また百済からも遺臣で、鬼室福信と言う武将が来日して、豊璋を新しい百済王として(唐に降伏した百済の義慈王と王族たちは、すべて長安に連行されたため、王になれる人物が、他にいませんでした)復興支援を要請してきたので、百済人の嘆願により、百済を再興させるために日本は出兵するという、大義名分も得られていました。 こうして約180年ぶりに、日本は朝鮮半島での大規模な軍事行動を開始することになります。
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