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カテゴリ:西暦535年の大噴火
日本が百済再興のための軍事行動に向けて動き出した時、朝鮮半島は燎原に火を放った状態になっていました。 百済は唐軍13万の大軍の侵攻により、あっけなく滅亡しました。 しかし唐は、長年の宿敵である高句麗への侵攻を優先して、降伏した百済軍の解体を不十分なまま高句麗へ転戦してしまい、新羅軍も唐軍と共に高句麗への進軍を要求されて百済から撤退したため、少数の守備兵しか残されていませんでした。 百済人たちは敗戦のショックから立ち直ると、「侵略者」である唐と新羅に対して反乱が起こりました。それは百済滅亡からわずか一月後のことです。 百済再興派は、日本にいた義慈王の息子豊璋の百済王就任と帰国を嘆願し、それを聞き入れた中大兄皇子は、斉明天皇に九州遠征を要求し、渋る天皇や豪族たちを押し切って、661年正月、筑紫の朝倉橘広庭宮(現在の福岡市博多区のあたり)へ行幸させました。百済派兵に向け、本格的な大本営を筑紫に設置したのです。 後世から見ると、世界帝国である大唐帝国に、小国の日本が勝てるはずは無いのにと、無謀な戦争という意識が強いと思います。 もちろんその通りなのですが、当時の朝鮮半島は、百済は滅亡したものの、上で書いたように、百済遺民たちによる蜂起が激しく続いていました。さらに高句麗はいまだに唐に頑強に抵抗しており、長年の戦争で唐も新羅も疲弊していました。 唐も東部国境だけに、いつまでも大軍を貼り付けておく余裕は無いため、百済を再興させられれば、唐はそれを承認して、再び三国の状態に戻して講和に持ち込めるという目算を、中大兄皇子は持っていたようです。 つまり、唐・新羅と全面戦争をして唐や新羅を滅ぼすといった全面戦争では無く、百済再興の既成事実を作ってしまえばそれで戦争は終わるという、局地戦争を想定していたようです。 この考えは後の唐の反応を見ると、ある程度は現実に即した計算だったようですが、結局の所、中大兄皇子の思惑は、百済再興派の力を過大評価していた甘い構想の上にあった事は否めません。 話を少し戻します。 中大兄皇子は思惑通り、筑紫への斉明天皇遠征にこぎ着けましたが、ここで思わず抵抗に遭遇します。 まず斉明天皇は日本軍渡海に消極的で、何かにつけて計画を延期して、中大兄皇子に反対する姿勢を示しています。 さらに皇弟(同父同母弟と言われていますが、詳細は不明です)大海人皇子(後の天武天皇)は、準備不足の点をあげて、戦争反対を唱えました。 実際、この時筑紫に集められた軍勢は、武具の調達も不十分で兵の練度も低く、船も足りず大急ぎで作っている最中でしたから、皇弟の主張は正しいものでした。 筑紫の仮宮では、中大兄・大海人兄弟による言い争いが連日続き、斉明天皇も大海人皇子の意見に賛同して、朝廷は意見を二分しました。 兄中大兄皇子が親百済派なら、弟大海人皇子は親新羅派と言われています(中大兄皇子が百済の王子豊璋と仲が親密だったように、大海人皇子は人質で日本に来ていた新羅の王子と仲が良く、新羅の武烈王や文武王(武烈王の息子。位661-681年)とも、交流があったと言われています)。 お互いの主張と行動だけを見ていれば正しい色分けですが、正確な評価では無いと思います。 二人の考え方の差は、現状認識後の展望の違いであったと思います。 中大兄の構想は先に触れたので、ここでは大海人皇子の構想に触れたいと思います。 彼は百済再興に懐疑的だったようです。復興には日本の莫大な援助が必要ですが、それだけの支援をしても、立ち直るか未知数です。 それならば、百済の権益などをいくつか日本に譲渡されることを条件に、新羅と手を結んだ方が良いという考えだったようです。 会社に例えるなら、莫大な負債を抱えて倒産した企業を再建させようと援助しても、労力ばかり多くて採算が軌道に乗るかわかりません。 それなら今までの投資損には目をつむり、倒産会社のライバル会社と関係改善をして、大取引にする代わりに譲歩を引き出して、新しい関係を構築していった方が良いのではという考えになるでしょうか。 さらに、新羅側からのアプローチもあったようです。 前に当時の日本には、半島の三国から人質がいたという話をしましたが、人質の新羅の王子を通じて、中大兄皇子には内密に、新羅の武烈王と交渉をしていたようです。 宿敵百済を滅ぼした武烈王ですが(彼は娘を義慈王に斬殺されたこともあり、個人的に百済に強い恨みがありました)、百済が唐領になり、朝鮮半島に唐の影響力が拡大してきたことに、強い危機感を持つようになっていました。 新羅からすれば、百済領は新羅のものであり、唐の行きすぎた半島への進出(あくまで新羅視点です)は、望ましくなかったのです(実際、唐の則天武后は、いずれは新羅も滅ぼして征服する野心を持っていたと言われています)。 また長年の戦争は、新羅の国力をすでに限界まで疲弊させていました。 今だ続く高句麗との戦争、百済遺民の反抗、唐の半島進出という苦境が続くところに、さらに背後から日本に攻められては、新羅は滅亡しかねません。 そこで武烈王は、新羅が占領した百済領の一部を返還して、名目上百済を再興させることで遺民たちを宥めつつ、日本にも権益回復の妥協をしようと考えていたようです。 もしこの交渉がまとまれば、日本が戦争に巻き込まれること無く、百済は復興します。そのため斉明天皇と大海人皇子は、中大兄皇子に内密に新羅と交渉していたのです。 なぜ内密の交渉だったのかと言えば、「百済を再興させて・・・」と言うところでは、中大兄皇子の構想も、武烈王の提案も同じでも、新羅主導の百済再興では、日本の政治的な影響力低下は免れません。それでは彼の政治的な失点を挽回出来ないので(むしろ傷が深くなります)、意味が無いのです。 ですが秘密交渉はまもなく破綻しました。661年6月に武烈王が、8月には斉明天皇が世を去り、双方の計画推進者がいなくなってしまったからです。 史料を見る限り、武烈王はこの頃体調を崩しており、病死なのは間違いないようです。しかし斉明天皇は、前日まで元気だったのに突然急死していることから、暗殺説もあります。 もし斉明天皇の死が暗殺であったとするなら、彼女の死で得をする人間は一人しかいません。ただしそれは証拠も何も無い話なので、「暗殺説もあります」と言うだけにとどめたいと思います(ちなみに『日本書紀』には、「(蘇我)入鹿の亡霊が大君(斉明天皇)を殺した」という噂が記されています)。 ハッキリしているのは、武烈王と斉明天皇の死によって、もはや日本の朝鮮半島派兵を止められる者はいなくなったと言うことです。 ここに7世紀の国際戦争に、日本も正式に参戦することになったのです。
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