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カテゴリ:西暦535年の大噴火
↑写真は、2000年頃に友人と福岡・太宰府に旅行に行った時の写真で、太宰府政庁跡です。 白村江の大敗で、日本の朝廷は激震に見舞われました。 朝鮮半島の権益喪失に留まらず、唐・新羅による日本侵攻の可能性も出てきたからです。 責任者の中大兄皇子は失脚や暗殺という流れになってもおかしくありませんが、この日本始まって以来の国難が、逆に彼の権勢を守ることになりました。 つまり、「内輪もめをしている場合では無い」状態になったのです。 兄と対立していた皇弟大海人皇子も協力していることから、当時の日本が、中大兄皇子を中心に挙国一致体制になっていたことがうかがえます。 中大兄皇子は親百済政策を改め、唐との講和の糸口を探りました。 幸い665年に唐から使者が来日したので(唐使の表向きの来日理由は、「百済で捕虜になった日本兵送還の相談のため」ですが、日本にまだ戦争継続の意思や、準備が整っているかを探るのが主目的でした。この時点では高句麗が健在でしたから、日本の再軍事介入を唐は警戒しており、状況によっては、高句麗侵攻の前に、日本侵攻をする必要もあったためです)、中大兄皇子は「先の戦争は、百済の遺民たちの百済復興を助けようとしただけで、唐に敵対する意思は無い」と弁明し、唐使に随行して使者を送り、日本の立場を説明させて、交渉の第一歩をつかむことが出来ました。 しかし、唐に再三敵対姿勢をとってきた中大兄皇子に、唐がすぐに態度を変えることは無く、双方手探り状態の交渉が続きます。 中大兄皇子は唐の心証を良くしようと、唐の衣服や制度、暦を取り入れて、親唐ぶりをアピールする一方、防衛体制強化も同時進行でおこなっています。 講和を求めつつ軍事力強化をはかるのは、一見すると矛盾に見えるかも知れませんが、外交とは、常に交渉と武力行使の表裏一体のカードで成り立っているのです。交渉だけに狗って国防を軽んじるのは、国家として自殺行為なのです。 まず、九州最大の政治拠点、大宰府(福岡県太宰府市)前面に水城(みずき。壕と土塁による直線的な構造の防塁です)を築きました(664年)。 さらに大野城(福岡県大野城市)、基肄城(佐賀県三養基郡基山町から福岡県筑紫野市にかけて)、長門城(場所は不明。現在の山口県西部)など山城を築き、北九州と瀬戸内海地域の要塞化を進めました(665年)。 そして667年には、都を飛鳥から内陸の近江京(滋賀県大津市)に遷しました(近江遷都から、壬申の乱が終わる672年までを近江朝ともいいます)。 これらは、唐・新羅連合軍が侵攻してきた場合の対応策です。 侵攻が開始された場合、対馬を占領、橋頭保として(対馬には667年、金田城が築城され、侵攻に備えています)、大陸との玄関口、大宰府が一番の攻撃目標となるでしょう。大宰府を攻め落とし、都のある近畿圏目指して瀬戸内海を東進してくることになります(余談ですが、この時代から約600年後の元寇の際も、同じルートで進行が計画されています。古代から中世にかけての航海術や渡海能力では、このルート選択がも最も堅実なのです)。 そこで北九州と瀬戸内海地域を要塞化して、簡単に攻め落とせないようにする一方、飛鳥より内陸の大津(当時は都のある飛鳥から見て「辺境」に等しい感覚でした)に都を遷して、領内深くまで防衛線を構築して、徹底抗戦出来るようにしたのです。 有名な防人の制度(九州防備のため主に東国から徴兵された農民兵。導入当初は税の免除はなく、兵役期間中の武器食料も自前だったため、農民側に負担が大きい過酷な軍役でした)が導入されたのもこの時です。 これらの準備が完了した668年、ようやく中大兄皇子は天皇に即位しました(天智天皇 位668年~671年)。 天智天皇が即位した同年、高句麗が滅亡しました。 それを受け天智天皇は、遣唐使を派遣しました。 これは高句麗の滅亡後、返す刀で唐と新羅が、日本に侵攻してくる可能性を探る情報収集の意味合いが強いものでした(この頃「唐と新羅が攻め寄せてくる」という風聞がかなり広まって降り、世情が一番動揺していたようです)。 しかし、唐・新羅の日本侵攻はありませんでした。というのも、百済と高句麗という共通の敵が無くなった両国の仲は、急速に険悪化していたのです。 唐は占領した百済領に熊津都督府を、高句麗領には安東都護府を設けて直接支配しました。 新羅にも鶏林州郡都督府を置き、新羅の文武王(武烈王の長子。位661~681年)に、鶏林州大都督の位を新たに贈りました。 王では無く都督(長官という意味になるかと思います)に任ずると言うことは、実質的に唐が朝鮮半島全体を、直接支配する考えであることを意味しました。 唐は、長い戦争で主導的な働きをしたのは自分たちですから、朝鮮半島支配は当然と考えていました。新羅についても、助けねば滅んでいた以上、独立国では無く藩属国と見なしていたのです。 対する新羅は、唐は他民族の他国であり、高句麗と百済は同じ民族という認識でした。戦争が終わった以上、唐は朝鮮半島から出ていくべきだと考えていました。 文武王は、百済や高句麗の遺民を、骨品制の支配下に組み入れを進める一方、唐の支配地域にいる百済・高句麗の遺民たちを扇動して、反唐運動を展開しました。 「敵の敵は味方」と言う言葉がありますが、共通の敵がいなくなった唐と新羅は、今度は互いが敵になっていく結果になったのです。 そして、670年に新羅の支援を受けた高句麗遺民軍が、旧高句麗領に駐留していた唐軍を奇襲攻撃したことで、両国は戦争に突入しました(唐・新羅戦争(670~676年))。 これにより、日本侵攻の可能性は完全に無くなりました。そして今までとは逆に、唐、新羅とも、日本を自陣営に取り込もうと関係改善を望むようになりました。 危機が去ったことに安堵したのか、671年10月、天智天皇は病に倒れました(異聞として、狩りの際何者かに襲撃されて、重傷を負ったのが原因とする説もあります)。死を悟った彼は、皇弟大海人皇子を病床に招き、皇位を譲りたいと打診しました。 しかしこれは、天智天皇が反目する弟に仕掛けた最後の罠だったと言われています。 彼は次の皇位を、息子の大友皇子(弘文天皇。位672年。ただし彼が天皇に即位していたかはハッキリしません。弘文天皇の名は明治時代になって贈られたもので、大友皇子の皇位が確認できる史料はないので、このブログでは、「弘文天皇」ではなく「大友皇子」と表記します)に継がせたかったのです。 しかし大友皇子は年若く(この時23歳)、朝廷内の人望は大海人皇子が圧倒的だったので(天智天皇が、敵を多く作りすぎた結果でした)、最有力後継者候補の皇弟に、声をかけないわけにはいかなかったのです。 もしここで、大海人皇子が兄帝の「頼み」を聞き入れた場合、天智天皇は皇弟を暗殺しようと、兵を潜ませていたと言われています。 しかし蘇我安麻呂からの警告(この頃の蘇我氏一族は、蘇我赤兄を筆頭に天智天皇へ忠誠を誓い、その謀略に協力する者が多いのですが、安麻呂だけは大海人皇子と仲が良く、天智天皇や身内の動きを見て危険を感じており、参内した大海人皇子に、「大君(天智天皇)とお話する際は、十分ご注意ください」と耳打ちしました)を聞いていた彼は譲位を断り、その日の内に剃髪出家して、吉野に去りました。 喜んだ天智天皇は、後継者に大友皇子を指名し、672年1月崩御しました。 しかし天智天皇の死は、新たな戦乱の呼び水になりました。日本古代最大の内戦と言われる壬申の乱です。
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