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2019.10.19
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カテゴリ:西暦535年の大噴火

壬申の乱は日本史の教科書にも出てくる有名な事件ですが、実は乱の詳しい原因はハッキリわかっていません。
一般的に「皇位継承を巡る争い」と言われるのは、それ自体が嘘ではありませんし、挙兵の理由はわからなくても、乱の経緯と経過、結果を説明出来てしまうからです。
​​他には、
・長年の天智天皇と大海人皇子との対立が、天智天皇の死後表面化した
・白村江の敗戦に伴う様々な賦役に、豪族たちも民衆も耐えられなくなり、天智天皇の方針からの変更を求めていた
・身分の低い母を持つ大友皇子への不満から(彼の母は、伊賀采女宅子娘と言われています。有力豪族の娘ではなく、出自は定かではありません)、朝廷と豪族たちの支持が大海人皇子(父は舒明天皇、母は宝皇女(皇極天皇/斉明天皇)と、天皇家の血統は彼の方が濃い)に集まったため
といった説が上げられています。​​
​​文学作品で有名なのは、天智天皇と大海人皇子の額田王を巡る不和説ですね(もともと大海人皇子の愛妾だった額田王を、天智天皇が見初めて強引に奪った話です)
もちろん、話としては面白いですが、歴史て研究の視点から見れば、この説を支持する歴史の先生はいません(大海人皇子は挙兵の理由は残していません。従弟の有馬皇子の死に関しての批判以外では、ほとんど兄への批判は口にしていないためです)。​​
いずれの説も大きな決定打といえるものは無く、上記のような理由が幾十に絡み合った結果であると思われます。
​また現在では、壬申の乱を日本のみにおける権力闘争とみるのは正確ではない、唐・新羅戦争(670~676年)など、東アジアの動向にリンクした面があるのではないかという意見もあります。​
ここではそういった視点に触れながら、壬申の乱を見てみたいと思います。

​天智天皇が崩御する前年、朝鮮半島では唐・新羅戦争(670~676年)が勃発していました。​
これをみて百済の遺民たちを中心に、再び百済復興の機運が高まりを見せていました。
しかし白村江の大敗に懲りていた天智天皇は耳を貸しませんでした。彼は百済を再興できる時期は過ぎ去ったと考えていたのです。
それに再び朝鮮半島情勢に介入することは、せっかく進めている唐との関係改善をぶち壊しにするものでした。天智天皇は百済遺民たちに言質を与えず、実質的に協力を拒んで世を去りました。
天智天皇の態度に彼らは落胆しましたが、一方で後継者に大友皇子がなったことは歓迎しました。
​というのも、吉野に出家した大海人皇子は、親新羅派と目されており(前にブログで触れましたが、新羅の武烈王や文武王と、個人的な親交もあったと言われています)、頼れる相手ではありませんでしたが、父天智天皇と同じ親百済色の強い大友皇子なら、聞き入れてくれるかもしれないからです。彼らは積極的に、大友皇子に取り入ろうとしました。​
​大友皇子がどのように百済再興派に接したか、彼らの嘆願をどう考えたかは、記録は残っていませんが、大友皇子を支えていた側近は、百済と関係が深い蘇我氏系の人物が多いので(唐との国交正常化を進めた蘇我入鹿が、蘇我氏からはみ出た存在でした)、若い彼が百済再興に興味を抱いた可能性はあるかもしれません。​
また今回は百済だけで無く、高句麗の再興派も活動しており、百済・高句麗両遺民によるかなり大がかりな運動になっていたのかもしれません。
​そんな中、大海人皇子が挙兵(672年7月)することになります。​
大友皇子の行動が不明なように、大海人皇子挙兵の経緯もまったくわかっていません。
​小説などでは、叔父の力量を恐れた近江側(大友皇子)が、刺客を送ったことがきっかけ、もしくは大海人皇子側が、近江側が油断する隙を虎視眈々と狙って、まんまと挙兵したとなりますが、いずれも想像の域を出ません。​
私のお話する事もその想像の1つになりますが、百済や高句麗の再興派の動きと大友皇子の反応は、朝鮮半島への再出兵に積極的と見えたのかも知れません。
もちろん、史料的な裏付けは無いのですけどね・・・。なので乱がどのような理由で起こされたかではなく、その後の展開に絞ってみていきたいと思います。
​吉野を脱出した大海人皇子とその一行は、東の伊勢(三重県)に向かい、伊勢神宮を詣でて兵を募ります。​
伊勢神宮は天皇家の氏神天照大神をまつる聖地ですので、自身の皇位正当性を主張し、挙兵をはかる場所としてうってつけの場所でした。
​​​加えて伊勢は古代東海道(伊賀から、常陸までいたる道路)が通る交通の要衝であり、美濃(岐阜県)の不破の道(古代の東山道。近江から美濃を抜けて陸奥まで至ります)と合わせて押さえれば、近江と東国の交通を遮断することが出来ました。​​​
​この地を大海人陣営が抑えた効果は絶大でした。東国から集まってきた軍勢(彼らは、近江朝側が、動員をかけた軍勢でした)は、そのまま大海人陣営に参陣してしまいました。​
白村江の大敗以後、東国の豪族たちは、近江朝の大きな賦役と重税に苦しみ、反感を募らせていました。彼らは近江朝に敵対する大海人陣営に、喜んで寝返ってしまったのです。大海人軍は、東国勢の来援で3万とも5万とも言われる大軍が集まりました。
このように東に向かった大海人皇子の判断は、二重三重に利点があったのです。
​伊賀の高市皇子(大海人皇子の長男。母が皇族で無く筑紫の豪族の娘であったため、生涯立太子される事はありませんでしたが、政治や軍事に高い能力を持ち、父や義母鸕野讚良皇女(後の持統天皇 位690~697年)から絶大な信頼を受けました)の軍と合流した大海人皇子は、不破の道を押さえ、近江侵攻へ向けた準備を着々と進めました。​
​対する近江側も兵を募りますが、東国は大海人陣営に阻まれ、九州や西国の豪族たちは動員に応じようとせず(百済への出兵に動員されて大きな打撃を受けたのは、主に九州や西国の豪族たちでした。その後も九州や瀬戸内海要塞化の労役が続き、近江朝に対する反感が強かったようです。仮に大友皇子が再度の朝鮮出兵に積極的だったとすると、その点も嫌ってサボタージュしていたのかも知れません)、近畿でしか兵を集められませんでした。​
しかし近畿でも、兵集めは順調ではありませんでした。
例えば河内の豪族たちは、天智天皇が謀殺した有間皇子と親交が深かったので、公然と近江朝への協力を拒みました。大海人側に寝返ったものが多かったようで、河内から西の援軍はまったく当てに出来ませんでした。
こうしてみると、大友皇子の不幸な状況がよくわかります。
彼自身の器量や能力とは関係なく、父天智天皇が余りにも反感を買いすぎていたため、父とゆかりのある蘇我赤兄などの蘇我氏一族や、百済再興派の渡来人や豪族たちしか味方がいないのです。
戦況は、近江側がようやく兵をかき集めて美濃へ進軍しようとしたところ、大和で大海人に味方した大伴吹負が挙兵して飛鳥を奪ったため、足元の火を消すべく、そちらへ軍を送らねばならず、また直接敵対の姿勢はみせていないものの、不穏な気配を見せる河内の豪族たちや西国からの攻撃を警戒して、西にも警戒兵力を割かなければならなかったので、ただでさえ少ない兵力を集中運用させることが出来ません。
美濃に送った先陣も、一足先に不破の道を抑えた高市皇子の軍に敗れて、足並みは乱れました。
一方、順調に東国から集まってきた軍勢をまとめ上げた大海人皇子は、軍を二手に分け、一軍を大和に送って吹負を助けさせ、自身が指揮する本隊は近江へ侵攻しました。
そして672年8月終わり、瀬田橋の戦いで近江側は大敗を喫し、大友皇子は自害し壬申の乱は終わりました。
​戦後処理を終えた大海人皇子は、翌673年2月、飛鳥に都を戻し天皇に即位しました(天武天皇 位673~686年)。​
​そして日本は天武天皇の元で、聖徳太子から始まった行政改革(律令国家)を完成させていくことになります。





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Last updated  2020.08.17 21:08:24
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