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カテゴリ:西暦535年の大噴火
久々の西暦535年の話です。 前よりペースは遅くなると思いますが、ポチポチ書いていきたいと思います。 初めにいつも通りの脱線、前振り話です。古代アメリカ大陸の文明について、簡単に説明したいと思います。 歴史の教科書を見ると、コロンブス以前のアメリカ大陸の歴史の扱いが、非常に小さく寝そっけないことに気が付くでしょう。 まぁ、私も詳しくないんですけどね(多汗)。 まずアメリカ大陸にいつ人類が進出したのか、正確には特定できていません。 アメリカ大陸最古の遺跡が、アメリカ合衆国ニューメキシコ州にあるクローヴィス遺跡で、およそ1万3500年前のものであり、それより前の遺跡が確認できていないことから、人類のアメリカ大陸進出は、約1万4千年前位、ベーリング陸橋(この頃氷河期で、ユーラシア大陸とアメリカ大陸は地続きでした)を通って、遊牧民たちが移住してきたのではないかとの説が有力です。 アフリカで生まれたとされる人類が、アフリカ大陸を出たのは約7万5千年前と言われています。これはちょうどトバ・カタストロフが起きたとされる時です。 ここで早くも話がずれますが、トバ・カタストロフの解説です。 トバ・カタストロフとは、インドネシア・スマトラ島にある巨大カルデラ火山トバ火山で起きた巨大カルデラ噴火で、7万5千年前に起きたと考えられています。 この巨大カルデラ噴火の噴火規模は、9万年前の阿蘇山のカルデラ噴火の5倍と推定されています。 トバの噴火の結果、6千年近く地球は「火山の冬」で寒冷化しました。そしてホモ・サピエンスとネアンデルタール人を除くホモ属、猿人類は絶滅しました。 ホモ・サピエンスも、1万人前後まで人口が激減し、絶滅寸前に追いやられていたと言われています。 ホモ・サピエンスとネアンデルタール人が生き残れた理由ですが、大きな要因は、両者とも服を着るようになったからと言われています(それまでは全裸で暮らしていました。そのことは、人間に寄生している虱などの調査から判明しているようです)。 つまり、衣服を身に着けて防寒対策をするという「災害対策」を成功させたおかげで、火山の冬を乗り切ることができ、また同時期に食料を求めてアフリカ大陸から他の大陸に広がっていった結果、人類は地球中に広がり、文明を作っていく契機になったと考えられています。 とまぁそんな感じで、人類はアフリカから約6万年かけて、アメリカ大陸にやってきたことになります。 さて、古代アメリカ大陸文明は、コロンブス以前の歴史研究に、実に大きなネックがあります。アメリカ大陸にあった文明の多くが文字を持っていなかったのです。 アメリカ大陸で、例外的に文字を持っていたのはマヤ文明(現在のメキシコ南部、グアテマラ、ベリーズ付近に、紀元前4世紀ごろ~西暦16世紀ごろ存在した文明)でした(あとは南米インカ帝国で使用された「キープ」と呼ばれる紐を使った連絡手段があります。これも広義には文字と判断されています。こちらも解読は出来ません)。象形文字と思しきものが発見され、現在もいくつか現存していますが、この文字を読める人間はいません。 不幸は大航海時代、大勢のヨーロッパ人が訪れたことでした。当時のヨーロッパ人は、キリスト教を絶対視して、異なる文明を容赦なく弾圧していました(同じことは、アフリカや東南アジアでも行われました)。 マヤ文明の文字や遺物、文化は、同地を征服したスペインの異端審問で「悪魔崇拝」「野蛮な文明の産物」とみなされて多くが焼き捨てられ、文字を理解できる者ものきなみ殺されてしまったため、読める人間がいなくなってしまい、現在解読不能なのです。 つまり読むことのできないマヤの文字の遺物は、異なる文明の人々が、他の文明を弾圧その文化を踏みにじった愚行の証人たちであると言えるかもしれません。 そのような事情のため、スペイン人進出前の文献史料がないのです(一応彼らスペイン人たちの手で、「野蛮で未開文明」として、風習や文化などがわずかながらに書き残されており、それが歴史を探る手掛かりになっているのは、非常に皮肉な点でもあります)。 口伝や伝承が残っているケースもありますが、それだけだと王の名前や大きな事件があったことがわかっても、年代の特定や、編年的な整理ができません。 また既に滅んだ文明や民族については、それすら残っていませんから、コロンブス以前の歴史は、遺跡や遺物から考古学的な視点で調査するしか方法がありません。 しかしこれは「歴史学」的には問題があります。 考古学的なアプローチでは、遺跡や遺物の年代は特定できても、何という民族が住み、どのような社会が形成されたかがわかりません。対となる文献史料の裏付けがないためです。いわば器はわかっても、中身がわからないのです。 そういった事情で、歴史の教科書だと、そっけない記述になってしまうのです。 ここでまた脱線ですが、考古学と歴史学は、はた目には同じ分野の学問と思われがちですが、考古学は遺跡や遺物などの現物を重視するのに対して、歴史学は文献史料を重要視します。 考古学者に言わせれば、「人は嘘もつくし書くのに、どうして書いてあることが信じられるんだ」となり、歴史学者は「遺跡も遺物もただそこにあるだけ。だれが何の目的で作ったか、どんな人たちが住んで、どんな社会が形成されていたかわからないのでは、お話にならないじゃないか」となります。 そんな感じで、実は考古学者と歴史学者は、仲が悪いことが多いです。 これに民俗学者(民俗学は、風習や伝承などから、民族の文化や変遷を探ろうとする学問で、考古学と歴史学の中間的な要素があります)が加わると、三すくみのいがみ合いになります(苦笑)。 「文献の有無より、遺跡や遺物の方が大事じゃない。論より証拠だし」と考える方もいるかもしれませんが、その辺はケースバイケースです。文献資料がない事をいいことに、偽史が捏造されることがよくあるからです。 次回後編は、それらの問題についても触れてみたいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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