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カテゴリ:西暦535年の大噴火
久々の西暦535年シリーズです。 今度のGWは・・・、書く時間進むかなぁ(汗)。 テオティワカンはメキシコシティの北東約50kmの位置にあります。 テオティワカンの遺跡を初めて見たヨーロッパ人は、アステカ王国(15世紀にメキシコ中央部にあった国)を征服したコンキスタドール(「Conquistador」スペイン語で「征服者」という意味です)のスペイン人、エルナン・コルテス(彼の名は、世界史の教科書でも出てきますね)だったと言われています。 当時のヨーロッパ人は、欧州とキリスト教以外に何の関心も持たず、他文明や非白人種を「野蛮な未開文明」と考えて敬意を払いませんでしたが、さすがにテオティワカンの巨大ビラミットには興味を覚えたようで、アステカ人に、「これは何か? 誰が作ったのか?」と尋ねました。 アステカ人たちは、「ここは巨人族が作ったテオティワカン(現地のナワトル語で、「神々の集まるところ」という意味になります)だ」と答えました。 「巨人族」というと、オカルトチックな話になりますが、テオティワカンの遺跡群を建設したのは、アステカ人の先祖ではなく別の民族だったので(アステカ人が、今のメキシコに住むようになったのは、12世紀ごろと言われています)、建築技術もアステカ時代には失われていました。 そのため、アステカ人たちは出自不明の古代遺跡を「巨人族が作った神々の集まる都市」と考えていたのです。 かくしてメキシコの密林に埋もれていた遺跡は、「テオティワカン文明」と呼ばれることになりました。 最盛期のテオティワカンの人口は20万人に達していたと言われています。支配地域は、現在のメキシコ南半分と、グァテマラ、ベリーズなどの国を合わせた地域に及んでいます。 この地に人が住むようになったのは、紀元前2世紀ごろからと推定されていますが、前述のとおり何民族が築いたのかは不明です。 人口20万都市のテオティワカンは、6世紀当時アメリカ大陸最大の都市であり、世界でも有数の巨大都市でもありました(確か6位ぐらいだったかな? 人口10万を超える都市は、東ローマ帝国首都のコンスタンティノープル、中国の長安、洛陽等があるだけでした)。 テオティワカンには、2つのピラミッドがあります(「太陽のピラミッド」と「月のピラミッド」と呼ばれています)。興味深いことに、エジプトのギザにあるクフ王の大ピラミッドとほぼ同じ大きさです。 なお、この点をだけを取り上げて、「古代エジプトと古代アメリカの文明に関連性がある」と主張する人もいますが、ピラミッドの大きさは同じでも、数と配置は異なっていますし(エジプト、ギザのピラミッドは3つですが、テオティワカンは2つです)、作られた時代も(ギザの大ピラミッドは紀元前2500年ごろ、テオティワカンの太陽のピラミッドは西暦200年頃と2000年以上違います)、文化形態、人種も異なります。 一番大きなピラミッドの大きさ以外に共通点、類似性はく、用途も異なるので、たまたま一致が見られただけと考えるのが、私は自然だと思っています。 さて太陽のピラミッドは、最高神トラロック(雨の神)に捧げられた神殿と考えられています。ピラミッドの内部には水路があり、儀式場と思われる場所も設けられており、トラロック神を奉る儀式が行われていたようです。 月のピラミッドの方は、農業の神ケツァルコアトルが、シトレ山(テオティワカン近くにある山。ケツァルコアトル神が住んでいると考えられていたようです)から、テオティワカンにやってきた際の仮宮にしてもらう場所という位置づけだったようです。そのため月のピラミッドと山は、都市を結んだ直線状に配置されています。 テオティワカンは、太陽のピラミッドと月のピラミッド、南北5kmにわたる道路を基点にして、神殿などの宗教施設を配置し、下水道も完備されていました。 このように、遺構から見えるテオティワカンは、合理的な都市計画に基づいて設計、建設された都市だったことが伺えます。 完成された都市という意味では、人間の増加によって都市計画を何度もやり直して成立したユーラシア大陸のコンスタンティノープル、長安、洛陽とは異なる都市だったと言えます。 そしてテオティワカンには、ユーラシア大陸にはない大きな特徴がありました。 政治・宗教・農業に工業、交易といったすべての機能が、テオティワカンに集中集約されていた点です。 簡単に言えば、エルサレムやメッカのような宗教都市としての性格と、コンスタンティノープルのような商業都市としての機能、そして長安や洛陽にある行政・官僚機構が、すべてテオティワカン一つに内包されていたのです。超一極集中型都市国家と言えるものでした。 まず神々を奉る神殿はテオティワカンにしか作られず、他の場所で作ることは許されていなかったようです。人々の信仰は、すべてテオティワカンに向けられる仕組みだったのです。 ナイフや斧といった道具類も、テオティワカンでしか製造されませんでした(遺構の調査から、都市住民の3割弱が、これら製造関係の職についていたと考えられています)。つまり日常生活から、農業や狩猟、漁労で使用される道具は、すべてテオティワカンに依存していたのです。 なぜそんなことがわかるのかというと、テオティワカン周辺の村々の遺構からは、当然出てくるはずの食料貯蔵倉庫や、道具などを製造する作業場が出てこないのです。したがって、それらの道具類の製造が許されていなかったと考えられているのです。 特に重要なのは、食料の貯蔵倉庫が存在しないことで、すべての収穫物は、テオティワカンに集められ、そこから末端の村々に分配されていく方式だったと考えられています。 つまり生きていくのに必要なものは、すべてテオティワカンに管理統制されていたようです。周辺の村々の位置づけは、すべてテオティワカンを支えるための農業生産・資源採掘地という形であったようです。 こうなると、暴動や反乱などが懸念されますが、そのような痕跡があまり見られていないことから、テオティワカンに集められた食料や、都市で生産された道具類を、勢力圏の村々に迅速かつ安定的に供給されるシステムがあって、人々の不満を発生させないよう工夫されていたようです。 このようにして、物心両面をすべて掌握したテオティワカンは、反乱の芽を摘みつつ、人々に不満を抱かせないよう巧みに統治していたのです。 メソアメリカには車輪が存在せず(荷車はなく、また馬もいなかったため、馬車もありません)、文字もなく文章によるやり取りができなかったことを考えると、この流通システムは、恐るべきものであったと言えるでしょう。 どうやって遠隔地に、物資を滞ることなく供給できる輸送網が作れたのか、文献史料がないため全く不明です。 また、閉鎖的な文明が多かった古代アメリカ社会の中で、テオティワカン文明の勢力範囲、交易範囲は非常に広いものでした。 例えば、テオティワカンの遺跡からは、約250km離れた海でとられた貝殻(宝飾品)や、約2千km離れたアメリカ合衆国ニューメキシコ州北部を産出場所とするトルコ石が発見されています。テオティワカンが、これらの地域と交易・交流があったことを示しています。 メキシコというと、「2012年で世界の終わり」と一部で話題になったマヤ文明(紀元前4世紀頃~16世紀頃)がありますが、この頃のマヤは、テオティワカンに従属していたようです。 マヤ文明の最盛期は7世紀から8世紀にかけてですが、それはテオティワカン滅亡後、その領土と遺民を吸収した結果と考えられています。 従属していた周辺文明はマヤ以外もいたでしょうから、テオティワカンには、遠方からの交易商人や外交施設なども居住していたかもしれません。 高度な都市社会を築いていたテオティワカンの最盛期は、6世紀前半頃だったと考えられています。人口20万に達したのもその頃と考えられています。 それが6世紀中頃から突然の退潮に向かい、一気に滅亡への道を突き進んでいくことになります。 次回は、テオティワカンが、どのような経緯で滅亡していったか、考古学的な調査からわかっていることを中心に書いてみたいと思います。 ・・・今までのパターン的に想像つきやすいので、「オチわかってますから」と言わないでね(笑)。
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