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カテゴリ:西暦535年の大噴火
それでは、テオティワカンがどのように滅んでいったか、触れてみたいと思います。 テオティワカンの本格的な調査が始まったのは、20世紀になってからです。発掘調査の結果、テオティワカンがどのような都市だったか、徐々にわかってきています。 まず都市に城壁がなく(そのため、当初は平和的な都市と考えられていました)、黒曜石などの道具製造資材の貯蔵所跡、干し煉瓦の製造所や、黒曜石のナイフや吹き矢を製造していた工房跡、さらにメキシコ高原では産しない貝殻やトルコ石の宝飾品が見つかり、かつての繁栄を偲ばせていました。 一方で血なまぐさい遺物も見つかっています。テオティワカンの神々と宗教、社会では、人間の生贄を捧げる習慣があったのです(これは他のアメリカ大陸文明でも同様でした)。 現代人から見れば、非人道的で理解しがたい風習ですが、テオティワカンの人々にとって、生贄を捧げるのは宇宙の死と再生を司る神聖な儀式だったのです。 ちなみに生贄に選ばれるのは、王族や支配者層です。平民層は「死後の生贄の召使い」に少数が選出されるだけだったようです。 というのも、生贄の選定基準が、健康で気品と知性を兼ね備えていることが条件だったからです。高貴な身分の者で教養も備わっていいる者でなければ、神と対話して、人間の要望をお願いできる存在になれないと考えられていたからです。 したがって、生贄は王族や神官の家系の中から年少か生まれた時に定められたようで、「生き神」として崇められる一方で、最高水準の衣食住と、教育が施されました。彼らの文化・慣習から見れば、生贄に選ばれることは悲劇ではなく、名誉だったのです。 ここで1つ脱線しますが、今から20年ぐらい前に、オカルトネタで「アステカの祭壇」という「心霊写真」が騒がれたことがあります。 この話は、テオティワカンやアステカなどの、生贄文化をベースにして語られていましたが、あれはメソアメリカ文明の考え方をまったく理解していない、現代人主観の考え方です。 当時、オカルト成分が濃かった私からして、「これは変だぞ」と思ったネタですが、同じオカルト系の話が好きな人たちの中には、まじめに怖がっている人が多かったですねぇ。 話を元に戻します。 テオティワカンの最盛期は、6世紀前半と推定されています。そして最盛期のさなかに、急速に衰退して滅んでいきます。 考古学的な調査結果から、以下のことがわかっています。 ・6世紀半ばごろの墓地から発掘された遺体の多くから、極度の栄養失調、疫病が死因と思われる兆候が伺える。 ・同時期、最高神トラロックの神像が、かつてないほど大量に製造されていることから、深刻な干ばつが起きていたと推測される(トラロック神は雨の神です)。 ・6世紀後半になると、殺害されたと思われる大量の人骨が無造作に埋葬されている事、さらに火災や破壊された家屋の痕跡があり、その後、人の痕跡が都市から消えている。 以上の仕様子から、「6世紀半ばに発生した大干ばつで衰退していったテオティワカンは、同世紀末、住民の反乱などで内部から自壊し、戦火の中で滅んでいった」と考えられています。 まず干ばつの痕跡ですが、テオティワカンから約800km離れたユカタン半島西にある2つの湖、ブンタ・ナグラ湖とチチャンカナブ湖から見つかっています。 2つの湖底から採取された堆積物に含まれた成分や、貝殻や木片などを放射性炭素年代測定法で分析したところ、西暦540年頃から約30年(誤差は、20~50年位)という長期間にわたって、冷害と干ばつが交互に見舞われていたことがわかりました。その影響は、メキシコ高原でも同様だったでしょう。 そして、想像されているテオティワカン滅亡の経緯は、次のようになります。 西暦530年代後半から540年代前半頃、メキシコ高原を大規模な干ばつが襲い、大飢饉が発生しました。 この事態に、テオティワカンからの食糧供給が停止、または滞りがちになったため、周辺の村々の住人たちは、大挙してテオティワカンに殺到したようです。 何故なら、今まで食糧はすべてテオティワカンから供給されていました。したがってテオティワカンに行けば、食べ物にありつけると考えたからです。 しかし大飢饉にあえいでいたのは、巨大都市テオティワカンの方でした。 大都市は食糧の生産地ではなく消費地ですし、勢力圏の農業生産が壊滅している以上、食糧は集まりません。 テオティワカンは農耕地も一括管理する一極集中方式でしたので、それが祟って別の地域から食料を入手する手段も、生産する方法も持っていませんでした。 備蓄されている食糧が無くなれば、難民はおろか、20万の都市住民すら養う術はありません。 大量の飢えた避難民の流入は、都市の治安を急速に悪化させました。 餓死者が至る所にあふれ、また都市の計画人口を超過したため下水道の処理能力も限界を超えたため、疫病が発生するようになりました。 その結果、都市の治安は一層悪化し、疫病が広がり死者が増える悪循環に陥っていきました。 都市の指導者たちは、トラロック神の神像を大量に作り、生贄を捧げて神に祈りを捧げましたが飢饉は収まらず、やがて人々は、神々とそれを奉る支配者層に不満と反発を強めていきました。 いくら祈っても飢饉から救ってくれないなら、神官も王族も、そして神々も不要のものです。暴力は支配者層に向けられていったのです。 6世紀後半になると、神殿などに残されたフレスコ画には、軍人や戦士の絵がやたらと多くなっていく傾向がみられています。これは当時の世相を表しているといえます。 神々が救済してくれない以上、神官や王族たちが頼ったのは、暴動を鎮圧して自分たちの身を守ってくれる軍だけでした。 その結果、権力は軍人たちが握り、王や神官の権威、神々への信仰心は一層失墜していきました。 実権を握った軍人たちは、当初高圧的に住民暴動に対処したようです。殺害された遺体がまとめて埋葬されているのは、その証拠と考えられています。 しかしやがて、暴動はがんでも鎮圧できないレベルになったのか、それても軍の有力者同士で権力争いがあった結果なのか、テオティワカン全土を覆う大規模な反乱が発生しました。 遺跡調査の結果、放火や暴力的に破壊された邸宅跡は、150以上確認されています。それらは神官や王族の邸宅跡だったと考えられています(一方、労働社会層の住居区では、火災や破壊の後はほとんど見つかっていません)。 暴徒は神殿や支配者層の邸宅を襲撃して火を放ち、神官や王族は、軒並み殺害されていきました。神殿や王族の邸宅跡では、バラバラにされ、骨までも粉々に砕かれた遺骨が発見されています。恐らく王族や神官たちの凄惨な殺害現場だったのでしょう。 また太陽のピラミッドにも暴徒が押し寄せたようで、安置されていたトラロック神の神像が、粉々に破壊された跡が発見されています。 これらの痕跡は、反乱を起こした側が、どのような意図と目的を持っていたかを、端的に物語っています。 6世紀にあったアメリカ大陸最大の都市テオティワカンは、住民たちの反乱により、内部から自滅したのです。 反乱を起こした側は、支配者層を皆殺しにしたことで、一時的に留飲は下げたかもしれませんが、それで食糧難が改善されたわけではありません。 むしろ逆に、すべての生産・流通のシステムを掌握していた支配者層が全滅したことで、テオティワカンは食料の調達が不可能となり、もはや人の住める土地ではなくなってしまいました。 生き残った人々は都市から姿を消し、テオティワカンは密林に埋もれていきました。 こうしてアメリカ大陸にあった一つの巨大都市が、地上から消えました。 以上が、現在考えられているテオティワカン滅亡の経緯です。 次は南米アンデス高原について、見ていきたいと思います。
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