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カテゴリ:大正期・新現実主義
『眼中の人』小島政二郎(岩波文庫) 俺はこういう人間だ 愛せたら愛してくれ 私は寡聞にも知らなかったんですけれど、これは武者小路実篤の詩の一節だそうであります。 うーん、これはちょっといい表現ですよねー。 まー、武者小路の詩って、いかにもこんな感じではありますが、しかし、なんといいますが、やはり「自信家」でありますよねー。なかなかこうは書けません。 この本は、こんな感じの、「ちょっといい話」の本です。 芥川龍之介の『羅生門』の出版(大正六年)前後から始まり、関東大震災(大正十二年)で終わる、一種の「ビルドゥングス・ロマン(教養小説)」であります。 主人公は、二十台の小説家の「半玉」(文中の表現)であります。 そしてその、筆者とほぼ等身大と目される主人公の、文壇内の付き合いを描く小説のうち、中心となって描かれる人物は「菊池寛」であります。 この小説の、初出誌において付けられていたタイトルは『菊池寛』であったそうです。つまり、菊池寛の「評伝」の様にもなっています。(終盤はそうでもありませんが。) 菊池寛について描かれたところはなかなか魅力的です。例えばこんな部分。 「今度僕の随筆集が出るんだがね、いい題がなくて困っているんだが、何かないかね」 汽車の中のつれづれに、芥川がそんなことを云い出した。 「ないッたって、何かあるんだろう?」 菊池が応じた。 「そりゃ二、三候補のないこともないがね」 そういって、芥川はその二つ三つを早口に並べた。 「……」 菊池は瞬きをしながら黙っていた。菊池が黙っている時は、不賛成の場合だった。 「どんなものが入るんだ?」 やがて菊池が聞いた。芥川がまた早口に、随筆集の中に入るべき一篇一篇の題をスラスラと並べ立てた。その中に、「点心」というのがあった。 「点心ッて何だい?」 「餅餌ノ属。以ツテ時食ナラザルモノ俗ニコレヲ点心ト謂フとあるから、日本流にいえば、お八かな」 「それ、いい題じゃないか、君らしくって――」 「なるほど。そういわれて見ると、悪くないな。点心に極めよう」 間もなく、汽車は浜名湖の上に出た。 どうですか。面白いやり取りを、筆者は上手に掬い取っていますね。 しかし、そんな文壇内の友人や先輩とのやり取りの面白さもさることながら、この小説の真骨頂は、「芸術小説」といっていい、主人公の文芸上の苦悩について、その「芸術観」を含めて書いているところであります。 これについては、佐藤春夫やロマン・ロランなどの文章がかなり長く引用されたりして、その苦悩の足跡が分かるようにかなり入念に書かれてあります。 その部分は、決して面白くないこともないし、古くさいこともないとは思いますが、いかんせん、当の小説内に持ち込んでしまっては、たぶんどれだけ書き込んでも、筆者の方でも充分に書けたとは思えなかったんじゃないかと考えるんですが、いかがでしょうかね。 ただ、「生活しろ。裸になれ。」というフレーズが、何回か出てきます。これは筆者の「小説観」を、小説向けに簡易に書いたのだと思われますが、この「裸になれ。」という、少々野暮ったい言い回しは、とにかく作品内からあふれ出ており、それはとても好感の持てるものではありました。 「ちょっといい話」というまとめ方は、本作品にとって、きっと不十分さを一杯含んでいるとは思いますが、小説の形を取りながら、こんな感じをもたらせてくれる第一級の「大正文壇史資料」というものも、さほど多くあるものでもありません。 今回はこんなところで。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 /font> にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.09.24 06:33:31
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