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カテゴリ:昭和期・内向の世代
『アポロンの島』小川国夫(講談社文芸文庫) えー、この筆者名あるいはこの著書は、以前より、というか遙か昔、私が大学にいた頃より、一種「尊敬」の念と共に知っていたように思います。 にも関わらず、この著書を今日に至るまでまるで読んだことがなかったのは、ひょっとしたら、すでに私の記憶からは欠けていますが、ちらりと本著を見て、「敬して遠ざける」、要するにパスしていたのかも知れません。 本著をご存じの方には今更言うまでもないことですが、この作品集は(これは短編連作がいくつか入った作品集です)、きわめて特殊な、というか独創性の高い、きわめて芸術的芳香の漂う、そして、きわめて「わがままな」作品群であります。 まず「わがまま」から考えてみたいと思いますが、作者が巻末の自作解説めいた文章にこのように書いています。 そして、このように過去を意識し直し、自分の文学の世界をたゆみなく作って行こう、と思った。うまい短編を書く必要はないが、自伝を丹念に書けば、書くことは決して尽きることはない。それだけでは意味のないようなものでも、建物の一つの石にはなるだろう、と思った。 最後の一文にご注目下さい。「それだけでは意味のない」とは言わないまでも、例えば、文章を書くときの一つのフォーマットとして「起承転結」というものがありますが、この作品集中のいくつかの短編は、「起承」でいきなりぷつりと終わっているような作品です。 うーん。芸術性を追求した散文作品には、こういうのって、許される? んですよねー、たぶん。 筆者以外にも、例えば作品の終了を告げない作品なんかは、おそらくたくさんありますよねー。 話題の村上春樹の新作小説だってそうですよね。今では続編が執筆されていることは発表されましたが、初めはそんなこと教えてもらってませんものねー。 (実は村上春樹は、このやり方、初めてではないですよねー。『ねじまき鳥……』が、このパターンだったですね。さらに遡れば「鼠3部作(4部作?)」だって、そうだともいえますしねー。) 話題を戻しまして、「建物の一つの石」ということでも同様であります。 文体が、感情を削ぎ落としたような硬質なものであるのと相まって、かなり視覚的な「マッチョ」な感じのするものになっています。 志賀直哉に範を仰いでいることを筆者自身が書いていますが、そんな「ハードボイルド」な文体で、映画の1シーンのように、いえ、まさに1シーンだけで、一作品が作られている短編がいくつかあります。 つまり、「伽藍」の一部が一作品になっているわけですね。 これも、「芸術的小説」には、あり? ですかねー。「わっがまま」ですねー。 で、さて、そんな「断片」のように提出されている作品群ですが、読み終わってどうかといえば、「芸術的」といえばきわめて芸術的、噎せ返るような「芸術臭」が、確かにします。 しかし、それと同時に、この作品集は、なんと読者層のストライク・ゾーンが狭いのだろうと、思わず呆れてしまうような感想を持ちます。 不特定多数の嗜好に対する配慮など、爪のアカ程もありません。 この作品集は全く「玄人好み」の極みであります。 私は読みながら強く思ったのですが、この作品集は「淡麗辛口」だな、と。 舌がピリピリとしそうな辛口の日本酒だな、と妄想しました。そしてこれはマニア・「玄人」には堪えられないだろうな、と。 もう少しだけ具体的にシミュレーションすれば、こんな具合です。 作品をきわめて丁寧に読んでいくと、いくつかの言葉・状況をきっかけにして、あるかどうかのきわめて微妙な、ある「小説的状況」が、すっと浮かび上がってきます。そこにかすかな「起承転結」が見えそうな感じがします。 しかし、それで、おしまいです。 1シーン=一短編作品は、すでに終わっています。 こんな味わいの小説です。どう思われますか。 しかしこれは、人によってはかなり「嵌りそう」な作品だと思いませんか。なんだか、凄そうですよね。 うーん、酒の肴の「イカの塩辛」みたいな小説ですねー。 しかし確かに凄いとは思いますが、ここまで一種「偏った」小説というものも、そもそも小説とは何をどう描いてもいいジャンルなのだとはいえ、うーん、関西弁で言えば「たいがいなもんやで」と、やはり私は思ってしまうんですがねー。 読み終えてふっと浮かんだのですが、太宰治の『桜桃』の中に「正反対」の小説観が描かれてあったのを思い出しました。 もちろん『桜桃』にしても小説でありますから、太宰がそのままの小説観を持っていたとはいえません。 ただ小川国夫のそれと比べたとき、どちらが正しいとかいうことではなく、よくもまぁ、これだけ異なった小説観に基づいて同一ジャンルの創作物ができるものだと、改めて小説の持つフィールドの広さに、私は眩暈のような戸惑いを覚えました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 /font> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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