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カテゴリ:昭和期・第三の新人
『白い人・黄色い人』遠藤周作(新潮文庫) 『黄色い人』の冒頭に、前書きのような形で、筆者は短いお話を書いています。 「童話」と紹介している、神様が人間を作った時のお話です。 一人でいるのが淋しくなった神様は、パン粉で人間を作ろうとし、竈で焼きました。 初め、五分で竈を開けた時にできた人間はまだ生焼けで真っ白だったので、「白人」と名付けました。今度はうんと時間を掛けて焼きましたが、時間を掛けすぎて真っ黒に焼けた人間ができあがりました。神様は「黒人」と名付けました。 最後にほどよい時間で焼いた黄色い人間ができ、「黄色人」と名付けます。そして神様は、「何ごとも中庸がよろしい」と言って、うなずかれました。 この話は何なのでしょうね。 『黄色い人』の中に黒人は出てきませんので(『白い人』の中にも出てきません)、白人と黄色人種の比較と考え、そして、何を比較しているのかとさらに考えると、たぶん、「無信仰者の、信仰者に対する相対的優位」って事でしょうかね。 『黄色い人』のテーマの一つはたぶんそんなところにありましょうか、しかし今更ながら、遠藤周作の純文学小説は、とても重たいです。 『白い人』と『黄色い人』の二つの小説、どちらの出来がいいでしょうかね。 一般的な評価がどうであるのか全く知らないですが、僕の感覚的なとらえ方では、うーん、やはり、『黄色い人』かな、……迷いますね。 『白い人』は第二次世界大戦終盤のフランス(ナチスに占領されていましたが、解放直前のフランス)が舞台です。 戦争と性的なるものの関係。ナチスドイツの人間性からの「ずり落ち」。そして、キリスト教とサディズムの関係。 このあたりがテーマでしょうが、どの一つをとっても、とてもとても重苦しいですよねー。そう簡単に見やすい鳥瞰図ができようとは思えませんよねー。 だから(「だから」かどうかはわかりませんが)、小説としては、少し図式的になったような気がします。 登場人物が、筆者に操られている人形のような類型的な動きになり、ややリアリティに欠けたように感じます。 人間が肉体的苦痛によって信念を曲げるということは、たぶん現在では、さほど意味のあるものではありません。そこに倫理的な、あるいは文学的な課題は、たぶんあまり残っていないと思います。 そういう意味で言いますと、この小説に立てられたテーマは、少々古びかかっているとも思えそうです。 一方『黄色い人』に描かれる、遠藤周作的宗教的二律背反テーマは、「全面的に神を信じることができないのに神の不在も恐れる」です、たぶん。 しかし、筆者の持つ「背徳者意識」の強さは、いったい何なのでしょうねー。 僕は、さほど根を詰めて遠藤周作を読んでいるわけではありませんが、この「自分はいつ神を裏切るかわからない」とでもいえそうな背徳への恐怖、そしてそれに伴う神の裁きへの恐怖(決して許してくれない神)は、とても強い形で、一貫して筆者の小説に流れていると思います。 ユダも、もし、あなたの弟子であったならば、そしてまた、その救いのためにあなたが十字架を背おい、鞭うたれ、死なねばならなかった人間の一人であったならば、あなたは、なぜ、彼を見捨てられたのだろう。 「ユダ、私はお前のためにも手をさしのべている。すべて許されぬ罪とは、私にはないのだから。なぜなら、私は無限の愛なのだから」あなたは決してそう言わなかった。聖書にはただ、怖ろしいこのあなたの言葉がしるされてあるだけなのです。 「生れざりしならば、寧ろ彼に取りて善かりしものを」 キミコは、私にゆさぶられて乱れた髪をなおしながら呟いた。「なぜ、神さまのことや教会のことが忘れられへんの。忘れればええやないの。あんたは教会を捨てなはったんでしょう。ならどうしていつまでもその事ばかり気にかかりますの。なんまいだといえばそれで許してくれる仏さまの方がどれほどいいか、わからへん」 別々の二カ所から引用しましたが、後者の台詞などは、まさに日本人的・ほぼ無宗教的「気楽さ」で読めば、大いに納得できてしまいそうです。 しかし筆者がこだわったもの(それについて僕が十分に理解できているとは思いませんが)、たぶんそれは、日本的宗教観の持つ、「人間の意志力に対する否定的感覚」めいたものではないかと思います。 神(仏)が人間をすべてを許すとは、結局、神(仏)が人間をすべてを信じていないことに他ならないのではあるまいか。そしてそれに対して、人間として震えながらも「おおそれながら」と異議を唱え続ける精神。 遠藤周作が最後までこだわったのは、たぶんそういったものであり、だからこそ、遠藤作品はとても重く、そして、いつまでも人を打ち続けるのだと思います。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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