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カテゴリ:明治~・劇作家
『南蛮寺門前・和泉屋染物店』木下杢太郎(岩波文庫) 筆者・木下杢太郎ですが、確か昔、近代日本詩人のアンソロジーを読んでいた時に、ちらっと目にした覚えのある方でしたが、神戸の古書店でこの文庫本を見付けた時、少しおやっと思いました。 すでに岩波文庫・緑帯本の「マニア」っぽくなっている私でしたので直ちに購入しましたが、この文庫本は、戯曲集であります。 筆者のことを、はて、詩人だと思っていたのは私の思い違いかな、とも思いましたが、家に帰って少し調べてみると、いやー、日本文学史の中にもなかなかいろんな異色の天才がいらっしゃるもんですねー。改めて感心しました。 筆者について、書籍やネットで少し調べてみたんですね。 まず詩人でいらっしゃったことについては、やはり私のぼんやりとした記憶通りでした。 それに加えて劇作家でもいらっしゃる。 しかし、それだけではありません。森鴎外の後輩、つまり東京大学医学部の出身で鴎外とも少なからぬ面識を持ち、耽美主事作家の牙城でもあった「パンの会」、雑誌『昴』などの主な同人でもあり、何より私が驚いたのは、皮膚科の専門医として、当時の癩病研究の世界的権威であったということであります。 そのほかにも美術史家であったり、南蛮文化の研究者であったりと、うーん、優れた人というのは全く、何でもできるものなんですよねー。 ちょうどイタリアのルネッサンス期におけるレオナルド・ダビンチが、いくつもの文化のジャンルにおいて第一人者であったように。 ということで、この筆者も日本の知的巨人の一人でいらっしゃいますが、さて今回の読書報告の対象の戯曲についてであります。 本文庫には五つの作品が収録されています。 『南蛮寺門前』『和泉屋染物店』『天草四郎』『柳屋』『常長』 これらの戯曲ですが、タイトルから何となくおわかりになるとは思いますが、おおざっぱに言いますと「切支丹」物ですね。『和泉屋…』だけは、現代劇(明治の終わり頃ですね)ですが、後はみんな江戸時代が舞台です。 江戸時代が舞台だから当然と言うことではありませんが、科白がこんな感じになっています。 長順 何とて黙らうぞ。仏陀の教は嘘八百、人を欺いて可惜しき若き命を むざむざと枯木の如く朽ちさす教……(やうやう夢幻的になり) 某在家の折柄は胡蝶は花に舞ひ戯れ、鳥が歌へばわが心、君の心も うち和み(小唄の節になりて)花の降る夕暮は、思へど思はぬ振り をして、喃、思ひやせに痩せ候ひしが……(再び我に返りたるが如 く)教観二門が何の真諦、三観十乗が何の悟道。某山に入りてより、 四年四月は日夜撓まず勤行苦行、ひたすら頓漸秘密の理を追へども ……(また詠嘆の調にて)かの日の幸に比べむ幸なく、わが美き人 に似る神も…… 実は、この筆者の詩も、こんな感じの物が少なくないんですね。 これは、語るような歌うような文体ですね。 以前にも少し触れました三島由紀夫の言、「戯曲の文体は舞踏の文体である」ということと重ね合わせますと、なるほど、詩人が戯曲を書くというのは、極めて自然なあり方になるものであるな、と。(しかし実際は、詩人がさほど戯曲に筆を染めているという話は聞きません。) それと、この筆者のもう一つの大きな特徴、「切支丹」テーマですが、ほぼ同時代の文学者の中で「切支丹」をテーマに少なからず取り上げた人は、私の知っている限りではやはり、芥川龍之介ですね。 『奉教人の死』や『きりしとほろ上人伝』などの作品は、芥川の全作品中でも極めて質の高い短編小説でありましょう。 このような芥川作品に比べますと、本筆者の戯曲作は、江戸時代の迫害下(あるいはそれに準ずる風潮)のキリスト教の描き方が、正面からまともに捉えている分、かなり窮屈であると同時に類型性に流れ、その結果奥行きの少ない、やや表面的・趣味的な表現に終わっているかな、と思いました。 ただ上記の作品中の最後の二作、『柳屋』と『常長』ですが、どちらもリアリズムから離れ、前者は狂言芝居仕立て、後者は能芝居仕立てとなっています。 私としては、『柳屋』の狂言仕立てのユーモラスな展開に、肩肘張らない「切支丹」テーマがのびのびと描かれているようで、これは単に好みの問題にすぎないのかも知れませんが、リアリズム仕立ての戯曲よりも楽しく読めたような気がします。 ともあれ、近代日本文学史上の作品としては、かなり異色作だと思いました。 そして、多くの異色作があるということは、その文化が重層的であり豊かだと言うことであります。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.05.11 06:27:18
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