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カテゴリ:昭和期・プロ文学
『草の実』壺井栄(角川文庫) 私は兵庫県在住者なので、香川県は、まー、お近くですね。 小豆島にも二度ばかり行きました。一度は家族で行って、もう一度は職場の慰安旅行みたいなので行きました。 そして二回とも、「岬の分教場」に行きましたよ。(職場の慰安旅行では、へろへろの二日酔い状態で行きました。情けなー。) 「岬の分教場」というのはもちろん、「二十四の瞳映画村」の中の施設の事ですね。 壺井栄といえば、圧倒的に『二十四の瞳』が有名ですが、ちょっとネットで調べてみたのですが、『二十四の瞳』の舞台である小豆島を全国に知らしめたのは、実は原作小説出版(1952年)の2年後に、木下惠介監督が撮った同名映画作品なんですよね。 なーるほど、やはり小説より映画の方が遙かに影響力がありそうですものねー。 ついでながら、この1954年には、黒澤明の『七人の侍』なんかも公開されていて、今考えてみれば、何と贅沢な日本映画の黄金期だったわけですねー。 さて小説『二十四の瞳』ですが、私も多くの方の例に漏れず、この小説は読みました。 というより、壺井栄の小説としては、この小説しか読んでいませんでした。 ただ、読んだのがもうかなり昔だったせいでしょうか、今となってはあまり何も覚えていないんですね。(まーそれは、加齢のせいでしょーねー。とみに最近いろんな記憶が薄れていきます。困ったものですなー。) 筆者は、文学史的な流派で言えば「プロレタリア文学」に近いところに位置していた方だと思います。ご亭主の壺井繁治はプロレタリア詩人だし、知り合いも宮本百合子や佐多稲子、黒島伝治などといったまさにプロ文の「第一人者」メンバーですし。 ただ筆者が小説を書き出した時期的なものが、彼女の作品をプロレタリア文学のトーン一辺倒から、結果的に「救った」んですね。(そして作品が人口に膾炙された、と。) (壺井栄の小説デビュー作『大根の葉』は1938年の作で、この頃のプロレタリア文学についていえば、五年前に小林多喜二が特効警察によって虐殺され、その後も国家の苛烈な弾圧が行われ続ける中、党員は次々と「転向」に追い込まれ、運動そのものが全面的な退潮期に入っていました。) 冒頭の作品は、戦後1955年の執筆で、『二十四の瞳』執筆の3年後であります。その年、筆者の年齢は56歳となっていまして、なるほど、ベテラン作家の堂々たる物語運びが十分に読みとれる作品となっています。 しかしこの作品には、戦前のプロレタリア文学運動から発展していった、いわゆる「民主主義文学」的な展開や主張は、『二十四の瞳』以上に見られません。 作品の舞台は、「婦人公論」連載時とほぼ同時代と読めますから、主人公の二十歳の「景子」の成長過程の周辺には、(もちろん幾つかは敗戦の影響が見えるものの)敗戦から民主主義へと向かう時期の国家の風潮の具体化が、もっとあれこれ姿を見せていいものだと思うのに、ほとんど描かれていません。ちょっと不思議な感じがします。 そのかわり、私が特徴的に思ったことが二つありました。 ひとつは、登場人物がとてもたくさん死ぬことです。 それは、第一次的には、この時代の日本がまだまだ医学的な後進性を持っていたということでありましょう。しかし、次々といろんな人物が死んでいき、そしてそれによって周りの人間の人生が大きく転換していかざるを得ない、いわゆる「セーフティー・ネット」など持ちようもない市民生活の現状を描くことが、筆者にとってはかつての「階級的」憤りの変形した表現なのかも知れません。 そしてもう一つが、この小説の基本設定になっている、『ロミオとジュリエット』のような、隣り合う家族(そもそもは同族である隣り合う二家族)の、えんえんと陰にこもった反目のし合いであります。 こういう設定は、まだまだこの時代の古い地方などには、大いに現実性を伴うものとして色濃くあったのでしょうかねー。 そうなのかも知れません。 ただ上記にも触れたように、敗戦によって、少なくとも表面的にはあちこちで声高に言われたであろう「新しい日本」(実際はなかなか掛け声だけで姿を見せませんでしたが)の思想が、そんな旧態依然とした人間関係に対決して、新しい生き方を目指していく主人公の若い男女達の理論の手助けとして一向に描かれていないことに、私は少し不思議なものを感じました。 ひょっとしたら、この時期についての、私の歴史認識に誤りがあるのかも知れませんね。 でも私は何か、筆者のこういう描き方に、筆者自身のものの考え方や時代の捉え方を感じます。 それは、かつて「プロレタリア文学思想」と呼ばれたであろう筆者の「思想」の、やはり新たな時代を迎え新しい大衆とを対象とした時の、筆者なりの発展形であるように思います。 つまり、「イズム」を全面には出さず、「トーン」として仄かに流していくという形の本作は、すでにベテランの域を迎えた「元プロレタリア文学作家」の、新機軸を含んだ作品、つまりは新しい戦略ではないかと、私はとっても穿った考えをし、しかし一方で作品自体については、大いに好感を抱くものでありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.08.06 08:43:10
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