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カテゴリ:明治~・劇作家
『別役実1・壊れた風景/象』別役実(ハヤカワ演劇文庫) 私が最初に出会った別役実の本は、多分『虫づくし』(ハヤカワ文庫)だったと思います。 高校生の頃ではなかったかと思うのですが、当時、別役実に対しては、アングラ劇団のヒーローである唐十郎や寺山修司のいわば先輩格として、不条理演劇の我が国の第一人者の劇作家である、くらいの知識を持っていたかなと思います。 ただ、それはあくまで知識にすぎないものでありまして、時代に対して遙かに「奥手」であった私は(未だにいい年をしながら「奥手」のまんまで、全く困ったものです)、唐十郎も寺山修司もなーんにも読んだこともなければ、そもそもそんな小劇場演劇を見たこともありませんでした。 (以前にも少し書きましたが、その頃私が戯曲として好きだったのは安部公房でした。しかしそれも、戯曲を読むという形の鑑賞でありまして、私が現実に劇場に行き、生身の人間の演じる芝居を鑑賞するようになったのは、つかこうへい以降であります。) ところが、手に取った『虫づくし』に、私はびっくりしてしまうわけですね。 本当に唖然としてしまうわけです。 なぜ唖然とするかは、本書を手にすれば(それも何の先入観もなく初めて本書を手にすれば)誰もが理解していただけると思います。 私は当時、メモ程度に書いていた読書ノートに、こんな風に記しています。 このほとんど病気のような世界は、とにかく面白い。普段は理性の中で眠っているように見える本能のような感覚がいきなり直接顔を現す世界の不気味さが描かれている。文体がよい。 今読むと、何を書いているのかよく分かりませんねー。困ったことです。 で、その後私は、折に触れて本書を再読三読し、また読書メモにこそこそと書いています。 論理と感情の盲点を構成していくこのやり方が小気味よい。 名随筆とは、文体が視点と分析の確かさを裏付けるものであると同時に、文体そのものが別の美意識によって存在感を発揮するものである。もちろん両者間には相互作用がある。 うーん、この文自体がほとんど病気の世界ですなー。 うすうすそうじゃないかなとは思っていたのですが、やっぱり私って、かなり頭の作りがアバウトですなー。まー、もう今となってはどうしようもありませんが。 ただ、こんな事も書いていました。 虚構がその構造において、いかにトリビアルなリアリティを要求するかということが、小気味よいくらいによく分かる。 この文は、ちょっと分かりますね。 『虫づくし』の方法論は、恐ろしいほどに虚構であり、そしてその虚構は、うんざりするほどしつこい現実描写によって裏打ちされているということが、多分言いたいのだと思います。 筆者は、さほどに虚構について徹底的に突き詰めている、と。 さて、冒頭の戯曲の読書報告ですが、この二作品は、不条理劇的「分からない」というタイプの作品ではありません。テーマらしきもの、つまり、何が描かれているんだと尋ねられた時の答えくらいは、たぶん言い切れる程度に「分かる」作品であります。 そんな意味で言いますと、例えば不条理劇として世界一有名なサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』などとは、少し異なる感じのするものであります。 確か三島由紀夫が(この方の戯曲も、一時期まとめて読んだことがありました)、二十世紀における文学の課題のひとつに「意味」をどう捉えるかというものがあると述べて、三島的表現として「意味の病」、ということを書いていたように覚えています。 例えば純粋音楽(器楽曲という理解ですね)には、やはり基本的には意味はありませんね。抽象絵画についても(具象だって同じだという説も聞いたことがありますが)やはり同じだと思います。 そういう言い方で言えば、文学だって同じだとは思うものの、ただ文学表現というものは、その要素として、基本的に「意味」という役割をほとんど専売的に担っている「言葉」を用います。 だから、できあがった文学作品から意味を抜き去るのは、やはりかなり難しく、またそうしてできあがったものは、どうしても歪になってしまうような気がするのですが、どうでしょうか。 本作の解説に、筆者がかつて「内容のまったくない芝居」を書いてみたいという趣旨の発言をしたと書いてありましたが、気持ちはとても分かるような気がします。 さほどに、この世界を追求することは難しく、あたかも強烈な水圧をひしひしと感じつつ深海にどんどん潜っていくごときものであろうと推測されます。 本書はそんな筆者の初期作品として、不条理演劇の古典としての「安定感」をも漂わせているような戯曲でありました。 筆者の拡げゆく「意味=無意味」の地平を、まだまだ大いに期待したいと私は思うばかりでありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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