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analog純文

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2012.02.19
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  『聖ヨハネ病院にて・大懺悔』上林暁(講談社文芸文庫)

 表題になっている二つの作品のうちの前者は、よーするに「病妻もの」というやつですね。
 この作品が、上林暁の小説の中ではもっとも有名なものだと思います。私の持っている高校生用の「日本文学史」の教科書にもこれが出ていました。

 「病妻もの」というのは、近代日本文学の「普遍のテーマ」(?)の三つ、「金」「女」「病」のうちの「病」の変形であります。古来、幾つもの名作があったようですが、えーと、思い浮かぶ一番目は何といっても堀辰雄ですかねぇ。あれは、「病妻」ではなかったですか、恋人ですかね。
 でも、軽井沢・サナトリウム・肺結核ときて、「風立ちぬ、いざ、生きめやも」とくれば、もうそこは、どーんと堀辰雄ワールドですね。
 古来、多くの子女の紅涙を絞り続けてまいりました。

 「病妻」というのは、やはりかなり魅力的なテーマではありますよね。
 そもそも「病妻」に限らず、愛するものが死ぬというのは、古今東西、ギリシャ神話から連綿と戯曲・小説作品を辿って、はやりの韓国ドラマまで(ただしこれについては私はほとんど知らないのですが)、本当に普遍のテーマですよねー。

 ドラマツルギーに困ったら、とりあえず誰かを病気にして殺しておこうかという感じでありますね。
 もっとも、自分が死ぬわけには生きませんからね。(自分が死ぬという話は少しコンセプトの違うものになってきますよね。例えば司馬遼太郎の『龍馬が行く』の感じとか、カフカの『審判』みたいな感じとか、どちらにしても、かなり作品の狙うところは変わってきます。)

 そう言えば以前、高校教師の友人が、高校の文化祭のクラス演劇と言えば、最後に誰かを一人を事故死か病死にしてできあがり、というようなことを言っていました。これはこれでなかなか難儀なものですねぇ。

 さて今回の病妻ものは、その中でも、「狂妻もの」であります。
 これは、「病妻もの」のジャンルなかでも、比較的「ニューフェース」ですね。
 本来ならば作家を巡る「病妻」テーマの中にも古くからあったはずでありましょうが、かつてはやはり時代的限界があったんでしょうね。
 妻の狂気は、即物的すぎて文学にならない、という感じでしょうか。妻、あるいは恋人の狂気の扱いについては、昔はとても冷たかったです。(「昔は」とか「ニューフェース」とか言う言い方から分かるように、現代ではかなり大きなテーマになっています。島尾敏雄の『死の棘』とか。)

 例えば、志賀直哉の作品の中に、付き合っていた女性が狂気に陥る話があったと思いますが、完全に他人事ですね。その女性に深入りしないうちに、それが分かってよかったよかったというトーンです。(もっとも志賀直哉という人は、そもそも他人の痛みには極めて鈍感な作家であったという感じがしているんですが、私の錯覚でしょうかね。)

 漱石だって、自分の頭がおかしいおかしいというテーマばかりじゃなく(『行人』が典型的ですね)、他にも女房の頭がおかしいというテーマの作品が描けたはずですが(現実にそれらしいことがあったように聞きます)、やはり書かなかったですね。

 この原因は何かというと、そもそも近代日本文学者に、女房を一人前の人格者として扱うという伝統が長くなかったからですね。(まー、これは文学の世界だけのものではありませんわね。他の分野はもっとひどかったと思います。)
 一人前の人格と認められないものが「狂気」したところで、それは近代的自我の問題にはならないだろう、という考え方であります。

 だから結局「病妻」の存在とは、あたかも金が意のままにならず、我が身の病が意のままにならないのと同様、自分並びに自分に属するもの(少々極端に刺激的な表現を取れば、「自分の持ち物」)に降りかかってくる災難みたいなものであったわけです。
 だからそんな妻の「狂気」は、文学に描いても仕方がないではないか、と。

 えーっと、ここまで書いてきて、見落とし作品がやはり幾つかあることにやっと気づいたのですがー。
 気づくのが遅いやろっ! あの作品やこの作品をどう考えるつもりか、というお声が聞こえます。すみません。これらの「名作」を忘れていました。

   『舞姫』森鴎外  『智恵子抄』高村光太郎

 えー、これらにつきましては、えーっと、えーっと、次回までに考えておきますぅ。
 すみません。


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Last updated  2012.02.19 13:05:00
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