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2012.03.03
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カテゴリ:明治~・劇作家

  『回転人魚』野田秀樹(新潮文庫)

 例えば、監督ミロシュ・フォアマン、脚本ピーター・シェーファーの映画『アマデウス』の中に(もうあの映画が30年以上も前の映画なんですよねー)、モーツァルトへの激しい嫉妬に苦しめられ、彼を陥れようとしていた宮廷楽師のサリエリが、モーツァルトの書いた楽譜を見て驚愕しつつも、神の寵愛を一身に受けたごとき美しい楽曲に陶酔してしまうというシーンがありましたが、えー、あんなものなんでしょーかねー。

 例えば、パウル・クレーとかワシリー・カンディンスキーの抽象絵画。
 何が描かれているかさっぱり分からない絵を見て(分かる絵もありますが)、何が描かれているかさっぱり分からないと言う感想は、まぁ、あまり意味がないですよねー。
 だってもともと特定される具象を描いていないわけですから。
 色と色の響きあいとか、色の深みとか、画面構成とか、そんなものから何かを感じて、そして私たちは、結構いい気持ちになったりします。
 あんなものなんでしょーかねー。

 別に芸術ぶらなくたっていいですよね。
 今私の眼の前には一本のコーヒースプーンがありますが、キッチンのスプーンが入ってある引き出しから、私が取り出すスプーンはたいてい決まっています。
 柄の部分が細くて、すくう部分との接続部がきゅっと締まっていてとってもチャーミングなヤツです。
 と、書きましたが、こんなのと同じなんでしょーかねー。

 ……えー、冒頭から何を訳の分からないことを書いているのだとお思いの貴兄、まことに申し訳ございません。これからその説明をさせていただきますが、それと同時に、人は、訳の分からない文章を読み続けさせられると怒りがこみ上げてくるということを、身をもって理解していただきたかったというねらいもあります。

 はっきり申しまして、今回冒頭の戯曲集を読みまして、わたくし、何も分かりませんでした。(厳密に申しますと、やや上記表現には語弊があります。少しくらいは、感じるところがありました。)
 何も分からないものをずっと読ませられますと、だんだん怒りがこみ上げてきますよね。
 まさに今回の私の読書風景はその如きものでありました。

 しかし私の偉いのは(自分で褒めるなよー)、物事は客観的に判断するべきだという考えが働くところでありまして(そんな考えなんか犬に喰われてしまえという考え方ももちろんあります。でも小心者の私はそんな畏れ多いことはとても言い出せず)、あれこれと考えた過程が上記の三例なのですが、一応、ちょっとだけ説明してみますね。

 まず一つ目の『アマデウス』の話ですが、要するに、戯曲というのはひょっとしたら楽譜と同じものなのかしらん、という思いつきであります。
 わたくし、クラシック音楽が好きで結構あれこれ聴いたりするのですが、はばかりながら楽譜は全く読めません。見事に何にも分かりません。
 だから例えば、モーツァルトのピアノ協奏曲第21番の楽譜を見ても、全く快感には浸れません。でも楽譜を読める人は、あたかもサリエリの様に、目で見て陶酔してしまうものなんでしょうか。
 そして、戯曲とは、それと同様の表現形式なのでしょうか。

 次に二つ目の話なんですが、これは我々が「分かる」という意味は、文字に直して説明ができて、そして納得しているに過ぎないということを考えたんですね。
 女性が描かれた絵を見て我々が分かったというレベルは、「あー、女の人が描かれているな。なるほど巧いものだ、まるで本物そっくりだ。」という程度に過ぎず、本当はこんな理解こそ、その絵を何も分かっていないのと同じなのだ、と。絵画理解とは、言葉による言い換えが目的ではないのだ、と。

 そして三つ目の話は、そんな風に考えてみると、現実の日常生活において、我々の持つ好悪の感覚や判断の基準は、よく考えてみれば、言葉=意味を媒体としていないものの方が遙かに多いということに気づいたわけです。
 「センス」とか「感覚」なんてものは、そうとしか言い表せず、そして実は我々の日常生活の様々な判断基準は、ほとんど「言葉とは無関係な感覚」に拠っているんですよね。

 つまり、野田戯曲とは、そんな戯曲なのである、と。

 これで一応、(似非)客観的な理解はできました。
 でも本当は、そんな屁理屈をこねていないで、一度足を運んで舞台に臨めばよろしい、というのが一番の正解なのでありましょう。
 しかしねー、漱石の『猫』に出てくる珍野苦沙弥先生のごとき「牡蠣的性格」の私と致しましては、一応文字で描かれた印刷物はやはりそれだけで一応の完結を見せて欲しいと思うばかりなんですが、こういう考え方ってきっと、100年くらい遅れた文学観なんですよねー。

 でもねー、例えば武者小路実篤の戯曲『その妹』や、井上ひさしの戯曲『父と暮らせば』のクライマックスにおけるいかにも劇的な「意味」ある言葉による感動的表現は、戯曲として、そんなに簡単に棄てていいものとも、思えないんですがねぇ。


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Last updated  2012.03.03 10:01:25
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analog純文@ Re[1]:父親という苦悩(06/04)  七詩さん、コメントありがとうございま…
七詩@ Re:父親という苦悩(06/04) 親子二代の小説家父子というのは思いつき…
analog純文@ Re:方丈記にあまり触れない方丈記(03/03)  おや、今猿人さん、ご無沙汰しています…
今猿人@ Re:方丈記にあまり触れない方丈記(03/03) この件は、私よく覚えておりますよ。何故…

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