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2012.03.10
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カテゴリ:明治~・劇作家

  『天使は瞳を閉じて』鴻上尚史(白水社)

 本書に「ごあいさつにかえて」という筆者の前書きがあるのですが、その中に「テントジ」という言葉が出ています。
 それが目に止まって、私は、なんだかとても懐かしい気持ちになりました。

 と申しますのも、私の娘が高校生だった「今は昔」、娘の親友が演劇部だったこともあって、そしてもちろん私も高校演劇に興味があったからですが、今考えますとあれは県大会なんでしょうかね、結構な数の高校の演劇部が競い合うという大会を見に行きました。

 ホールで一日中しているんでよね。それも確か二、三日間。
 とっても全部を見切れるものではありませんでしたが、でも適当にセレクトして適当に見ていると、それが結構面白かったりして、たぶん3年間(娘が高校在学中ですね)私は毎年見に行きました。
 そしてその時、よく上演されていたのが「テントジ」でありました。

 いえ、私はこの『天使は瞳を閉じて』を「テントジ」というなんて事は当時知らなかったんですがね。
 しかし、『天使は…』を「テントジ」というのなら、同じく鴻上尚史の『朝日のような夕日をつれて』はなんていってたんでしょうね。「アサユウ」ですかね。これはちょっと面白くないですね。どなたかお教えいただければ幸いです。

 あの頃、高校演劇でよく演じられていたのは鴻上尚史以外にどんな方がいらっしゃいましたかね。……うーん、よく憶えていないですねー。
 成井豊、北村想、……後はよく憶えていないですねぇ。
 とにかくそんな劇作家のお一人として私は鴻上尚史を知ったのですが、この度、例の大型古書籍販売チェーン店でたまたま見つけたもので、買ってみました。

 いやー、懐かしい。
 いえ、懐かしくはあるのですが、……懐かしくはあるのですが、しかし、これはいったい何なのでしょうね。

 ……ここんところ、ぼちぼちと戯曲を読んだりしているのですが、そして本書の場合はさほど極端なものではないのですが、読み終えると、戯曲と表現形式について考えてしまう作品がとても多いです。
 つまり戯曲という表現が、書籍というメディアに本当にマッチしているのかということであります。

 昔の戯曲は、読んだ後そんなことを思うことは余り無いですね。戯曲と書籍との幸福な蜜月時代であったのでしょうか。
 ところが、戯曲と書籍との仲は、近年急速に「性格の不一致」が表面化してくるんですね。それは、小説と書籍との仲とは比較にならない質量においてであります。(小説と書籍だってきっと、本当のところ、そんなに仲むつまじいわけではないでしょうが。)

 その説明について、ちょっと視点を変えまして、オペラの変遷をアバウトに取り上げて(精密に取り上げるには私の知識が少なすぎますゆえ)、考えてみますね。。
 オペラの黎明期、主役は何といっても人気歌手でした。その歌手の歌が聴きたくて人々はホールに集い、歌手はそれに答えて自らの芸を力一杯披露していました。その場において作曲とは、歌手のためにどれだけいい曲を作るかということであり、特に話の筋は、ほぼどうでもいいという程度のものでありました。

 その後、オペラの中心は、作曲家になります。
 作曲家の名前で客が入るようになり、今度は歌手は、或る意味交換可能な「部品」になっていきます。オペラの最盛期ですね。ロッシーニあたりから始まって、モーツァルト、ヴェルディ、ワーグナーなんかの頃でしょうか。

 ほど経て、次にオペラの主役となったのは、指揮者であります。これが大体、二十世紀の中盤当たりでしょうか。
 この理由は、はっきり言うと、オペラに際だった新作が作られなくなったからでありますね。(さらにそれは、オペラという形式が、もはや時代に対応しきれなくなった結果であります。)やはりカラヤンの名前が挙がりますねぇ。

 そして現在、いわれているオペラの主役は、演出家である、と。これは、歴史的な流れでいえば、オペラの退廃期(衰亡期?)でしょうか。少し意地悪な言い方をすれば、作品の解釈を変えて目先を変える、……とは、やはりちょっと言いすぎでしょうかね。

 さて以上の歴史的変遷の傾向を簡潔にまとめますと、作品における純粋音楽的部分の重要度の割合が、どんどん下がってきたということであります。
 (一部のスポーツにも同様の傾向があると聞きます。フィギアスケートとか、新体操とかにおいて、純粋身体能力的部分の割合が下がりつつある、と。そしてその代わりに相対的に重視されつつあるのが、ファッション、だそうです。ちょっと驚きますね。)

 この傾向は、まー、客観的に述べますと、総合芸術への志向というものでありましょうか。それがいいとか悪いとか言っても仕方なく、もはやこの流れは止められない「時代の流れ」でありまして、その潮流の中にまさに演劇も乗っている、ということであります。

 (突飛な例ですが、医療の世界も同様ですよね。現代の主流はチーム治療でしょう。かつてのように一人の医者がリーダーで、他のメンバーはその指示を聞くだけという治療では、現代の複雑化した医療はとても対応しきれないんですね。まさに時代の流れです。)

 ということで、本来の読書報告に戻りまして、まず一点。
 本書を読んで、私ははっきり言えば、とても軽いものを感じたのですが、それは、演劇における文字担当部分の重要度が相対的に縮小したからで、時代潮流的に当然のことである、と。
 そしてきっと、作品全体の「総重量」は、何ら変わっていないのでありましょう。

 で、もう一点ですが、それは上記の「書籍と戯曲」の関係のことであります。
 例えばオペラのCD化について、オペラをこのメディアに乗せることの意味はもはや終わっているという意見がある如く、「戯曲本」というメディアも、現代演劇という総合芸術の成熟の中で、そろそろ息の根を止められつつあるのではないか、と。
 いえ、もちろん私は、それに賛成しているわけでは、全くないのですけれど……。


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Last updated  2012.03.10 08:20:06
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