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2012.05.20
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カテゴリ:明治~・劇作家

  『青森県のせむし男』寺山修司(角川文庫)

 えーっと、書き出す前に、少し気になったもので、一部分を仮にアップロードしてみたのですが、ちゃんとブログに乗ったので安心したといいますか、まー、よかったな、と。
 何の心配だったかといいますと、本のタイトルについてですね。
 「せむし男」という部分。

 ちょっと気になったんですね。
 そこで、そもそもこのタイトルの「本歌」であっただろう小説についても、ついでに調べてみました。冒頭の戯曲のタイトルは、ヴィクトル・ユーゴーの小説『ノートルダムのせむし男』から取っているんでしょうね。この小説のタイトルは、今どうなっているのかと、ネットで調べたわけです。
 すると、今では少し違うタイトルになっているんですね。
 『ノートルダム・ド・パリ』とか『ノートルダムの鐘』とか、ちょっと後者は、こじゃれた感じのタイトルになっています。

 でもさらに見ていきますと、今まで私が知らなかったことが書かれてありました。
 それは、そもそものユーゴーの原題は『Notre-Dame de Paris』であったということであります。
 とするとなんですか、「せむし男」という少々問題を含みつつ、しかし一方でかなり作品自体を象徴しているタイトルは、日本語に翻訳する段階で入ったということなんですねー。

 例えばわが国には昔から、外国映画のタイトルについて封切りの際日本語のタイトルにする時に、原題を直訳せず、なかなか雰囲気のあるタイトルを付けてきたという伝統がありましたものね。
 (ついでの話ですが、少し前に、この伝統が最近なくなってきて原題のアルファベットを単にカタカナに直しただけの、味も素っ気もないタイトルばかりになってきたことを嘆いた文章を、誰の文章でしたか、読んだことがあります。世の中には、いろんな嘆きがあるものですね。)

 しかし、そのやや問題のあるタイトルを最初につけたせいで、今となっては、一時は人口に膾炙していたタイトルがなくなってしまい、改名後の何とも馴染みのない(パロディにしてもそうだと分からない)中途半端なものとなってしまいました。

 ということですが、さて、冒頭の戯曲集であります。以下の5つの戯曲が入っています。

   『青ひげ』『青森県のせむし男』『大山デブコの犯罪』『邪宗門』『犬神』

 制作され初演の演じられた時代は、例の(この「例の」ってのは何でしょうね。小劇場演劇の最も注目された時代ということでしょうかね)1970年の前後なんですね。
 最近、70年前後だけに限らず、昭和後半の時代を振り返る本がけっこう出ているような気がしますが、現状不如意によるノスタルジーなんでしょうかね。

 それとも、昭和から四半世紀が過ぎ、そのちょっとした長さが、あの時代のいろんなものに対して、あたかも小高い丘から眺めるような見通しの良さを生みつつあるのかも知れませんね。

 ともあれ、本作を今読んでみると、これは以前にも70年代あたりからこちらにかけての戯曲集を読んだ時に触れましたが、やはり演劇における言語の役割の相対的低下が見られます。
 ただ、たぶん同年代である唐十郎の作品よりは、言語は機能的に動いている、つまり、簡単にいえば、ストーリーをかいま見ることが出来るという感じがしました。
 それは、戯曲を造った作家の資質の違いかなと思います。

山吹 ほんに地獄に、春が来た。(とにっこり)春にほろほろ啼く鳥の、
   声をきくたび思い出す。あたしの捨てたおっ母さん、いま頃どう
   しているのやら、飢餓が三年、旱が五年、止むにやまれぬ口べら
   し、あまりにはげしく泣くときは、草刈り鎌を月に研ぎ、母の舌
   をば切りおとし、舌切り雀のお葬式(ふと声をおとして)あたし
   が川で水浴びをしていると、村中の男たちの目が光る。嫁にほし
   い、嫁に来てくれ、と言われるたびに、あたしは言ってやるんだ
   よ。”ひとつ家に、女が二人じゃうまくはいかぬ。あたしを嫁に
   ほしかったら、まず、母親を捨ててからおいで”と。


 例えばこんな科白に見られる言語の役割は、状況を次々に生み出していくと同時に、言葉自体の持つ詩性を表現することが強く求められます。
 その詩性にこだわりつつ場面を展開していくというのは、かつて戯曲の最も基本的条件でありましたが、さて、今はどうなっているのでしょうか。

 そんな意味では、70年前後という時代とその時代を代表する劇作家達は、大きく歴史と伝統を切り回したと思います。
 ただその方向付けたものがさらにその後どんな展開を生み出しているのか、寡聞にして私には分析説明する能力がありません。


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Last updated  2012.05.20 09:08:44
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