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カテゴリ:大正期・新現実主義
『蜘蛛の糸・杜子春・トロッコ』芥川龍之介(岩波文庫) 今になってこんな事を述べるのも何かとは思いますが、実は私、児童文学というものがよく分かりません。いままで本ブログにおいては、幾つかのいわゆる児童文学を取り上げたことがあるように思いますが(例えば宮沢賢治とかですね)、……。 と言うところまで書いて、思うところあって以前私が宮沢賢治について触れたブログの所を読み直してみたら、今回私が言いたかった児童文学についての意見が、既に書かれてありました。なーんだ。と思いつつ、せっかくですから、自分の文章ですがちょっと引用してみますね。 例えば芥川の『蜘蛛の糸』なんかでも、児童文学としてはともかく、大人が読むには一種の「限界」を理解しつつ読む必要があると感じます。 それはおそらく「人間性の簡略化」という事だと思いますが、これこそが、僕が児童文学を苦手とする原因ではないかと考えています。 (太宰治の『走れメロス』は、ちょっと天才的な「別格」です。) 今回読んだ『蜘蛛の糸』にまですでに触れているではありませんか。 というわけで、今回の読書報告の冒頭の岩波文庫は、岩波文庫の芥川の本すべての解説文を書いている中村真一郎が、「非常に広く考えて『子どもむき』と考えることもできよう、というものを選んでみた。」と書いて選んだ短編小説集であります。 20編の小説が収録されていますが、短いのは1ページとか3ページとかで終わっています。一方長いのは『妖婆』という作品で54ページです。この長さは、未完に終わった『邪宗門』や『偸盗』なんかと同じくらいの長さです。 (ついでながら『妖婆』というお話は、何といいますか、上記の未完作品や、芥川の少し長い目のお話に特有の、ストーリー上の面白さがいっぱい詰め込まれた、良い例えなのかどうか分からないですが、江戸川乱歩の「奇妙な味わい」小説のような面白さです。) と、ここまで書いて、また少し不安だったので調べてみましたら『邪宗門』は66ページだったので、ほぼ私の書いたとおりに合っていたのですが、なぜか我が家に『偸盗』が見つかりません。確か『偸盗』は、わたくし2回読んだ覚えがあるんですがねー。いったいどこ行っちゃったんでしょうねー。……というわけで、『偸盗』はどれくらいの長さだったかよく分からないままの無責任な記述であります。どーもすみません。 で、さて、芥川の児童文学です。 私の苦手な児童文学ですが、こうして並べてみますと、短編小説の名手芥川でも、出来の善し悪しがあることが分かります。やはり有名な作品はそれなりにしっかりとまとまっています。短編集の総題にもなっている『蜘蛛の糸』とか『杜子春』とかですね。 『トロッコ』は、ちょっと中途半端な感じがしました。特に作品の最後に主人公の少年「良平」の、26才時のことが4行書かれてあるのですが、ここの理解が少し微妙ですね。名作『蜜柑』なんかは、最後の2行が作品に広がりを与えてとってもよかったですが、『トロッコ』の最後の4行は少しネガティブな描写だからかもしれませんね。 しかしよくできた『杜子春』にしても、上記に触れた「人間性の簡略化」という理解に、私としてはどうしても引っかかってしまうんですね。児童文学を読む以上そんなところに引っかかっていてはつまらないではないかとは一方で思いつつ、やはり少し気になります。 例えばこんな所です。『杜子春』の最後の所。仙人になれなかった杜子春と仙人が話す個所です。 杜子春はまだ眼に涙を浮べたまま、思わず老人の手を握りました。 「いくら仙人になれたところが、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けている父母を見ては、黙っている訳には行きません。」 「もしお前が黙っていたら――」と鉄冠子は急に厳な顔になって、じっと杜子春を見つめました。 「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ。――お前はもう仙人になりたいという望も持っていまい。大金持ちになることは、元より愛想がつきたはずだ。ではお前はこれから後、何になったら好いと思うな。」 ここなんですがね。この仙人の言ったとおりだとすると、初めから杜子春は仙人にはなれなかったわけですね。まー、何かを学ばせるというのはこういう事なのかも知れませんが、少し仙人が意地悪な感じがするのは否めませんね。 ついでに、もしも杜子春が鞭を受ける父母を前にして、最後まで一言も口を利かなかったらどうなっていたのか。それは『蜘蛛の糸』が如実に語ってくれています。 しかしこちらの「お釈迦様」も、少々気分次第、気まぐれな感じのするお方ではありますが……。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012.12.23 13:41:57
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