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カテゴリ:大正期・新現実主義
『真珠夫人・上下巻』菊池寛(新潮文庫) 例えばこの二作品の文章を比べてみます。 ある曇った冬の日暮れである。私は横須賀発上り二等客車の隅に腰を下ろして、ぼんやり発車の笛を待っていた。とうに電灯のついた客車の中には、珍しく私のほかに一人も乗客はいなかった。外を覗くと、うす暗いプラットフォオムにも、今日は珍しく見送りの人影さえ跡を絶って、ただ、檻に入れられた小犬が一匹、時々悲しそうに、吠え立てていた。 汽車がプラットホームに、横付けになると、多くもなかった乗客は、我先にと降りてしまった。此の駅が止まりである列車は、見る見る裡に、洗われたように、虚しくなってしまった。 が、停車場は少しも混雑しなかった。五十人ばかりの乗客が、改札口のところで、暫く斑にたゆたった丈であった。 ……ふーむ、どんなもんでしょうねー。 上の文章は、『蜜柑』芥川龍之介の短編小説であります。そして下の文章が、今回の読書報告である冒頭の菊池寛の作品であります。 そう思って読むからかも知れませんが、やはり下の文章の方が、少し「ダルい」。 文体としての緊密性、「締まり」に欠けているような気がしますね。 特に「多くもなかった」「洗われたように」「混雑しなかった」「斑にたゆたった」という一連の表現について、結局どんな情景がいいたいのか焦点がうまく定まっていない感じがします。 もっとも、芥川の『蜜柑』といえば、名作の誉れ高いものでありますから、それと比べるにはやはり菊池寛の方ももっとも評価の高い作品で比べるべきだとも思います。 また、一方は短編小説だし、一方は長編小説だという違いも看過すべきではありません。確か三島由紀夫が、長編小説を書く時は、短編小説の時と違って細かな描写には凝らないようにするということを言っていましたが、別に三島由紀夫によらずとも、短編小説と長編小説の文体の緊密度に差があることは当然でありましょう。 というわけで、その文体について、別に芥川と比べてどうだと言うことはほぼ意味がないことが分かったのですがー(えー、すみませんー)、しかし、やはり文章として本作『真珠夫人』がやや「雑い」ことは、たぶん明らかであります。 いえ、私の言いたいことは筆者を貶すことではなく、そんな文体の荒っぽさにもかかわらず、時代に挑戦しているような作品の優れた先見性について、次に述べたいのであります。それは、例えばこんな表現であります。 「人が虎を殺すと狩猟と云い、紳士的な高尚な娯楽としながら、虎が偶々人を殺すと、凶暴とか残酷とかあらゆる悪名を負わせるのは、人間の得手勝手です。我儘です。丁度それと同じように、男性が女性を弄ぶことを、当然な普通のことにしながら、社会的にも妾だとか、芸妓だとか、女優だとか娼婦だとか、弄ぶための特殊な女性を作りながら、反対に偶々一人か二人かの女性が男性を弄ぶと妖婦だとか毒婦だとか、あらゆる悪名を負わせようとする。それは男性の得手勝手です。我儘です。私は、そうした男性の我儘に、一身を賭して反抗してやろうと思っていますの。」 この科白は、主人公「瑠璃子=真珠夫人」の言葉であります。本作品は大正九年(1920年)に大阪毎日・東京日日新聞に連載されましたが、ここに描かれる思想の先進性は誠に時代を超えている気がします。 菊池寛の師匠筋に当たる夏目漱石は大正五年に亡くなっていますが、絶筆の『明暗』に、やはり女性の主体性(自我)を強く意識した「秀子」と言う人物を描きますが、その書きぶりはネガティブなものになっています。 また「秀子」と直接つがってはいませんが、漱石には初期に『虞美人草』という作品があり、その中の「藤尾」という女性は、ちょうど『真珠夫人』の主人公「瑠璃子」の様な強烈な自我を持つ女性です。 そして漱石は、『虞美人草』執筆終盤頃、弟子への手紙に「本編の主眼は藤尾を殺すことにある」と書いています。 先日私は、斎藤茂吉に関する本を読んでいたのですが、茂吉夫人・齋藤輝子氏は生前「猛女」として名を馳せた方のようですが、そんな呼ばれ方の切っ掛けの一つに「ダンスホール事件」というものがありました。 これは昭和八年に、銀座ホールの不良ダンス教師が、伯爵夫人や有閑マダム、課長夫人などを相手に醜行を演じていたとして検挙された事件で、その有閑マダムの一人として彼女の名前も新聞に報じられました。 これらのことを考え合わせますと、小説だとはいえ、よくこんな主張が新聞紙上に載ったものだと思います。 しかし何より素晴らしいと私が考えるのは、筆者菊池寛が、主人公「瑠璃子」を最後まで倫理的に断罪していないことであります。 例えば有島武郎の名作『或る女』は、明治四十四年の作品ですが、この自我に目覚めた魅力的な主人公早月葉子は、結局ストーリーの中でほぼ倫理的に断罪されてしまいます。 数年前、この『真珠夫人』は「昼メロ」として放映されたそうですが、そのテレビドラマの出来不出来はともかく、ある時代に描かれた先進的な表現は、時代が大きく隔たりその思想が既に広く行き渡った時代になっても、その有効性が決して亡びないことを示したと、私は思ったのでありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.01.20 13:03:44
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