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カテゴリ:昭和期・新戯作派
『新樹の言葉』太宰治(新潮文庫)
そもそもなぜ太宰治でなぜ『新樹の言葉』なのかと考えますに、それはやはり私に間歇的に太宰治が読みたくなる時期があるということかなと思うのですが、図書館でするすると何かに導かれるように本書を手に取ってしまいました。 いえ、本当はもう少し「見当」があって、確かこの文庫本に「愛と美について」が入っているんじゃないかと思い出していたのでしたが、案の定入っていました。 この「愛と美について」という短編は、私だけでなくきっと少なくないファンがいると思うのですが、とても上手ないい話です。せっかくですから、この名短編を例にして少し考えてみたいと思います。 このあたりの時期の太宰作品は、まー、整理した言い方をすれば、「まるで整理されていない」くらいの言い方になるのでしょうか。 上述「愛と美について」のような珠玉作があるかと思えば、川端康成が批判してそれに太宰が噛み付いたその川端の批判対象そのもののような作品、語り手の「愚痴話」めいた記述を前面に押し出してしまった数編があります。 それは太宰ファンには結構面白いお話しでしょうが、まーやはり「二流」めいた気がします。本短編集でいえば「春の盗賊」「花燭」「秋風紀」あたりはそんな感じがします。 例えば、太宰には「黄金風景」という極めて短くもとても出来のいい小説があるのですが、上記の「花燭」はほぼ同一のテーマを用いて、そして多分3倍くらいの長さを使って、しかし出来は劣るように思います。 「春の盗賊」も、いくら何でも書きすぎだろう(「太宰話」が。後述)と言う気がします。本書の解説を奥野健男が書いているのですが、「春の盗賊」を「小説としては殆ど体を成さぬまで、自己の心を語った異色作」とまとめていますが、さすがに評論家はうまく褒めるものであります。 もともと太宰治の小説には、特に作品序盤、筆者を模したような語り手が登場してあれこれ「太宰話(……苦しい。生まれてすみません。悲しい嘘です……。など)」を語るという特徴があります。 世にいう太宰ファンとは、少なくともこの「太宰話」を目障りだとまでは思わない読者であるのでしょう。(まー私もそうかも知れません。) ただ太宰の上手なところは、そんな部分を梃子にして一気にぐいっと物語の核心に読者を引っ張り込むところで、しかしそのためには語り手部分と小説の本筋とのバランスがとても大切であり、そしてそこにこそ稀代のストーリーテラー太宰治の才能が開花していると思います。 本文は冒頭に書きましたように「愛と美について」を考えたいと思っているのですが、今述べていたのは、太宰作品には二つの層があって、それがうまくバランスが取れた時には絶妙のできばえになるということですが、さらに「愛と美について」には、もう一層語りの層が出てきます。 語り手が作中の語り手たちを語り、そしてその語り手たちがさらにストーリーを語るという、入れ子仕立てでありましょうが、あざといばかりに手の込んだ(太宰らしいサービス精神に満ちた)作品構造になっています。(太宰は同構造の続編も書いているのですが、私の好みでいえばこちらであります。) 本当のところ、私は本書の全短編を読んで、もうひとつ何か違うんじゃないかという「違和感」めいたものがありました。 何といいますかそれは、上記本文にも書きかけているのですが、安易に走っていないか、作者の、作品への全力投球が少し信じられないという感じのものです。 で、この感じの正体は何だろうかと、さらに考えたんですね。 本書には昭和14年と15年の作品が収録されているのですが、この時期というのは、太宰の豊穣な中期の作品群(「走れメロス」「駆け込み訴え」「富岳百景」「女の決闘」「御伽草子」などのきら星のごとき名作群)の直前であったせいかなと始めは思ったんですね。 しかし少し太宰の年表を探ると、今挙げた名作だけでも「御伽草子」以外はみんな昭和14年と15年の作品ではありませんか。 ……うーん、昭和14年には、すでに太宰の豊穣期は始まっていたんですねー。 しかしそれにしては、なぜこんなにできばえの善し悪しがあるのでしょうか。 よくわからんなーと思いながら、私は本文を読み終えたもので、奥野健男の書いた解説を読み始めると冒頭にこうありました。 「この『新樹の言葉』で、新潮文庫の太宰治の本は十六冊目になる。」 最初は、「ふーん、そーなんだー」という程度の呆けたような感じ方しかしなかったのですね。でも、何となく気になってじっとにらんでいましたら、おやっと気付きました。そして今更ながらなーるほどと思いました。 この「十六冊目になる」とは、少し意地悪に読めば「そろそろ二級品も入ってきますよ」という意味ではありやなしや。 いやそれはあまりに意地悪な読み方でありましょうか。 これはきっと、「選ばれた太宰ファンのあなたのための作品が、この度集まりました」と読むのでしょう。 だって太宰の第一創作集『晩年』の冒頭作「葉」のエピグラフに、 撰ばれてあることの 恍惚と不安と 二つわれにあり ヴェルレエヌ と、確か、ありましたよね。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2018.10.15 06:38:57
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